学生が大学で学ぶことと、企業が求めていることには大きなギャップがある。企業はより実践的な能力を求めているからだ。筆者らは、いまも高等教育の重要性は変わらないが、求人市場に大きな変化が生じているいま、大学はソフトスキルの教育にも力を入れるべきだと主張する。


 学生が大学で学ぶことと、就職に備えて身に付けているだろうと実際に期待されている知識との間の不幸なギャップについて、雇用主やビジネスリーダーたちの嘆きを耳にすることは多い。これは大卒者数の多さ、そしてなおも続く増加を考えると、ひときわ憂慮すべき問題だ。大卒者はOECD加盟国では25~34歳人口の40%超、米国では25~34歳の50%近くに達している

『エコノミスト』誌の最近の報道によれば、若者にとって大学の学位の投資対効果はかつてなく高まっているという。教育に価値があるのは明らかだ。

 とはいえ、大卒者が増えるにつれ、学位の付加価値は低下する。サハラ以南のアフリカ(大卒者が比較的少ない)では大学の学位が収入の20%増に寄与するのに対し、スカンジナビア半島(成人の40%が大卒)ではたった9%増にしかならないのはそのためだ。

 同時に、大卒がますます一般的になってくると、求人担当者や雇用主は、特定の仕事に大学の学位が本当に必要かどうかにかかわらず、大卒を求めるようになる。したがって、高等教育はいまなお高収入の仕事につながりうるとはいえ、募集条件を大卒者に限定すれば、上記のような雇用主はみずからの首を絞め、若者たちにも害を及ぼしていることになる。

 いたるところで破壊的変化が生じ、仕事が予測できない進化をする時代にあっては、大学で従来型の知識を学んで学位を得ることが、現在でも有効であるという論拠は成立しにくい。

 学位の感覚的な価値ではなく、「実際の価値」を疑問視する根拠については、データに基づいたものがいくつか存在する。まず、メタ分析による検証で、教育水準と仕事のパフォーマンスは相関性が低いことが立証されて久しい。

 仕事の潜在能力を測るには、学位よりもむしろ知能スコアのほうがはるかに適していることが、調査からわかっている。大学の学位を持つ候補者と知能スコアの高い候補者のどちらかを選ぶとすれば、たいていの仕事、特に継続的に考え学ぶことが求められる仕事において、後者のほうが前者よりも有能であると期待できる。学校での成績は候補者がどれくらい勉強してきたかを示すことにはなるが、知能テストの成績には、彼らの実際の学習能力、判断力、論理的思考力が反映される。

 大学の学位はまた、社会階級と混同され、社会的流動性の低下と不平等の増大の要因になっている。多くの大学では学生を能力に基づいて選別しているが、たとえ能力ベースであっても、併用される選別条件のなかには合格者の多様性を下げるものもある。

 多くの社会では、収入や階級に基づいた同類交配の度合いが高い。米国では、裕福な人は裕福な人同士で結婚することが多い。裕福な家庭は、子どもを一流大学に入りやすくさせるための学校、家庭教師、課外活動といった特権にお金を使うことができる。これが、子どもの将来の全体的な進路に影響を及ぼすことになり(その後のキャリア展望も含む)、一部の人は明らかに有利となる一方、そのおかげで明らかな不利を被る人も生じるわけだ。

 雇用主が大学の学位に価値を見出しているのは往々にして、候補者の知的能力を測る信頼できる指標として学位を見ているからである。ならば、心理学的な評価手法を使えば済むことではないだろうか。そのほうが将来の仕事のパフォーマンスをより正しく予測できるうえ、社会経済的な地位や人口統計学的変数とは混同されにくい