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「人は、天から与えられるのでなければ、

2017年12月19日 16時28分21秒 | 聖書

何も受けることはできません」(ヨハネ3:27)

ヨハネの弟子は、今まで師のヨハネにあった、皆の関心と人気が主イエスに向かった事をひどく妬んだ。
しかし、ヨハネは違った。「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と、すべての主権が神にあることを認めていた。

神が与えて下さるものを受けるだけだと。
他の人にもっと人気と関心が集まるなら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事ではない。
ヨハネは自分に与えられた場所、地位、立場、能力をわきまえ、すべてにおいて満足していた。

人は、もらい泣きはするが、もらい喜びはない、と言われる。人の悲しみに同情する事はできても、それほど、人の喜びを共にする事は難しい。
同僚が自分をおいて、昇進して行く時、友人が入試に合格、自分は不合格、人が幸せそうにしている時、そんな時、嫉妬心が渦巻く。

比較の中に生きているからだ。比較すると、必ず優越感か劣等感に陥る。
高慢から来ていて、優越感も劣等感も同じものだ。
劣等感があるから、優越感に浸りたい。優越感のその底に劣等感がある。
ぐるぐる回っているだけだ。

比較から妬みが生じる。弟子たちの姿は私たちの姿だ。ヨハネは天だけを見ていた。
「天」が鍵だ。だから満足と平安があった。横を見ている限り、あの人は、この人は、とずっと比較の世界を放浪する。
そこに全く平安はない。そこから解放して下さる。

目を天に向けて、「行く所どこにおいても主を認め」よう。
そうすれば道をまっすぐにされ、どんな中でも揺るがない平安がある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず優越感や劣等感、妬みを主に告げよう。
心を打ち明けて、自分の姿を認めよう。
その時、信仰を与えて下さる。
自分にも同じように、最善をして下さると信じれるので、自分にも時適って良いものを下さると、楽しみに安んじている事ができる。

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