prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「三度目の殺人」

2017年09月23日 | 映画
役所広司の殺人犯が福山雅治の弁護士との接見のたびに言うことがころころ変わる、その様子が単なる追及逃れや虚言癖といった程度ではなく、言葉自体の意味や論理をいわば脱臼させて無効化させてしまうようなあたり、同じ役所広司が主演した「CURE」で荻原聖人が演じた間宮という人を殺人犯に変えてしまう一種の怪物を思わせ、しかもあのラストで役所扮する刑事が新たな怪物となったかのような描き方だったこともあって、あれからこちらに帰還してきたような錯覚を持った。

ここでの役所広司扮する殺人者は内面のない人間、といった形容がされるけれど(余談だが、「復讐するは我にあり」を監督するにあたってモデルになった連続殺人犯を調べあげた今村昌平も同じことを言っている)、通常の感情や論理のアクセスを不能化するタイプのサイコパスと呼ばれる人間というのは実際にいて、その不可能性によって周囲に対して主導権を持つ、いった現象が起こり、実際ビジネスで成功する人間にサイコパスタイプはかなり多いという。

こういう行き当たりばったりの言動で人を振り回し主導権、あるいは権力を守る人間に見覚えがある。今の日米首脳だ。

弁護士の福山雅治がここでそのペースに巻き込まれて行って、「天国と地獄」の三船敏郎と山崎努のような鏡像関係を結ぶに至る。

二人が顔を合わせる接見室の撮り方が圧巻で、間を隔てるガラスに二人の顔がだぶって写るあたり完全に「天国と地獄」で、さらに関係が深くなるとガラスが真横から撮られて画面上ではただの線になってしまい、隔てている感じを失うことになる。
そうして支配される立場にあった者が一種の支配力を持つようになる逆転が起きることになる。

役所広司のひとつひとつの場面ではひとつの性格や状況をきちんと反映しているようにふるまいながら、しかしそれが場面が変わると根底から別のものになってしまっていて、つなげていった結果それらをつなぐあるべき内面を完全な欠落させているのがわかるという具合に、犯人が他人をわざと混乱させるために「芝居」しているようには決して見えない、芝居を消した芝居をしている把握の強さに驚嘆する。

部屋の内から外に出ていくものとしての小鳥(ある意味犯人自身)が目に見えるものとして描かれていないあたりのシンボル性は成功していると思うが、十文字のシンボルは日本の風土に置くとどうも場違いだし(だから第二の舞台を北海道にしたのか)、何人も出てくる高校生くらいの娘がダブルイメージになるのはやや作為が目立つ、とか、ストーリー展開が斜め上に飛躍する連続など「LAW & ORDER」ばりだけれど、ややグリップが効いていない気もする、など見終えてしばらくすると出てくる不満もあるが、すこぶるスリリングで触発力のある一作となった。
(☆☆☆★★★)

三度目の殺人 公式ホームページ

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