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■國分蘭「Looking For Herring」(2019年1月29日~2月10日、札幌)

2019年02月10日 10時38分44秒 | 展覧会の紹介-現代美術
 公式リリースでは「北海道出身」となっていた東京のフォトグラファー國分蘭こくぶんらんさん。2月4日の北海道新聞朝刊文化面によれば、留萌出身だそうで、かつて留萌に住んでいたことのある筆者は「なるほど」と思った。

 筆者が暮らしていたのは1988年から2年間だが、とにかくくりかえし耳にしたのが
「昭和29年(1954年)を境にニシンがとれなくなり、留萌の人口減が始まった」
というストーリーである。北海道の日本海側のマチは、岩内や余市(いずれも後志管内)、いまは合併で石狩市内となっている厚田村や浜益村など、ニシン漁とともに盛衰をともにしてきたのだが、留萌市も例外ではない。現在でも、留萌市のカズノコの生産量は日本一である。
 というか、明治初期に松浦武四郎が北海道の郡の区分けを考えた際に、道東や太平洋側などと比べると日本海側の郡がいずれも狭く、忍路おしょろ郡や高島郡、厚田郡、浜益郡に至っては過疎化とともに近隣の市と合併して郡名が無くなってしまっているのだが、おそらく当時の人口分布が影響しているのであろう。「北海道の開拓」というと、原始林を切り開いてーというイメージを持つ人もいるかもしれないが、それが本格化するより前の幕末明治期に人々に移住を促した要因はニシン漁だったのだ(その後、砂金や石炭なども北海道に人を呼び寄せる一因となるが、それはまた別の話)。

 そういうわけで、留萌っ子にとって、ニシンとは春の訪れを告げる魚であり、ふるさとの魚なのだ。
 そして、一時はほとんど姿を消していたニシンが、近年少しずつ石狩湾などでとれるようになってきているという。


 先の道新の記事には、次のようにある。

昨年2月の約1カ月、同スタジオから小樽沖など日本海沿岸に通い、産卵でニシンの大群が浜に押し寄せる「群来くき」の撮影を狙った。毎日早朝にスタジオを車で出て海に通う生活を続け、小樽の忍路で念願の群来を撮影することができた。

 レジデンス後も北海道を訪れ、知り合いの漁師の船でニシン漁に同行したり、稚魚の飼育放流などを取材。展覧会では群来や放流、網に掛かる様子など写真8点と映像作品を展示している。


 いちばん大きくプリントしてあるのが「群来」。
 すこし沖合の海面が、白い帯になって輝いているのがわかる。
 筆者も、話にはさんざん聞かされていたが、実際には見たことがないので、ちょっと感動した。

 ほかに「鰊漁」「生後108日」「鰊の引越し」「鰊」「鰊御殿」ほか2枚。
 鰊御殿は、留萌の人にとってなじみのある、留萌市の北側、小平町鬼鹿にある「国指定重要文化財 旧花田家番屋」ではなく、小樽・祝津のそれであった。
 余談ながら鬼鹿村は1956年に留萌管内小平町に合併され、まさにニシン漁とともに歴史の幕を閉じたといえる。廃村になったわけではもちろんなく、現在も市街地があって、町長も鬼鹿地区出身だ。

 スライドは「From Birth To Releasing The Ocean」と「Fisher」の2組で、いずれも5分50秒。ニシン稚魚を育てている現場や、漁のようすを、55枚の写真でとらえている。
 これだけだと、従来のリアリズム的なルポルタージュ写真とあまり変わらないことになるが、先に「ほか2枚」とした写真が、北大図書館北方資料室蔵の「北海道沿海鰊収穫一覧図自明治11年至15年」などの資料の接写であり、國分さんの関心は、北の厳しい労働現場を情緒的にうたいあげることよりも、北海道の歴史や文化に広がっていることがわかる。

 そのあたりの話が、最終日午後6時からのトークイベントで聞けるのではないかと思っている(仕事で行けないのが残念)。


2019年1月29日(火)~2月10日(日)午前9時~午後9時、月曜休み
さっぽろ天神山アートスタジオ(札幌市豊平区平岸2の17)
https://tenjinyamastudio.jp/event-item/2019/01/21446/




さっぽろ天神山アートスタジオへのアクセス(澄川駅から)

・地下鉄南北線「澄川駅」から約730メートル、徒歩10分
・同「南平岸駅」から約1.0キロ、徒歩13分

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