言論の自由についての私見(再録)

2019-02-14 jeudi

安倍首相が国会で民主党政権の時代を「悪夢」と評したことについて批判を受けた。
それについて「私には言論の自由がある」という反論をした。
どうもこの人は(この人に限らず)「言論の自由」という概念を勘違いして使用している人が多いように思われる。
「言論の自由」について私の原則的な立場はいまから10年以上前に書いた以下の文章に尽くされている。
2008年6月に書いたもので、若干「それ何の話?」というような昔のことにも言及しているけれど、その辺はスルーして欲しい。

言論の自由についての私見
9年前にインターネットにホームページというものを開設したときに、一つ自分にルールを課した。それは必ず固有名で発信し、自分の発言については責任を引き受けるということである。
実利的な理由もあった。
私も学者である以上、万が一他の誰もまだ述べていないようなオリジナルな学術的知見を発見する可能性は絶無ではない。その場合、当該学術情報についてのプライオリティは私に属する。
むろん、文学研究のような浮世離れした世界では、そのようなプライオリティが現実的な利益(特許権とか)をもたらすことはほとんどない。しかし、「このアイディアを最初に思いついた人」として人に知られるのは(そのアイディアの被引用回数が増えると)なかなか愉快なことである。だから、何かアイディアを思いついたら「固有名のタグ」をつけておくことにしたのである(書き留めておかないと翌日には忘れてしまい、自分の論文にさえ使うことができないというより実利的な理由もあったが)。
紙媒体に寄稿したテクストも、ブログのテクストも、だから私の場合、原則は同じである。「自分の書いたことについては、その責任を引き受ける」、「自分が書いたことがもたらす利得については、それを占有するにやぶさかではない」。わかりやすい理屈だと思う。
ところが、この「わかりやすい話」がインターネット上ではなぜか通用しない。現在ネット上で発言している人の大部分は匿名の書き手だからである。
率直に申し上げて、私は彼らが匿名を貫く理由がうまく理解できないのである。
どうして、自分の書いたものに責任を取ろうとしないのか?どうして、自分の書いたことがもたらす利得を確保しようとしないのか?
この二つの問いのうちでは、第二の問いの方が答えやすそうだから、こちらから先に手を付けよう。
どうして、自分の書いたことがもたらす利得を確保しようとしないのか?
理由はわりと簡単である。それは書かれたテクストが書き手に利得をもたらす可能性がきわめて低いからである。
ノーベル賞級の科学的発見をした人がインターネットに匿名で自分の仮説を公開するということは考えにくい(今のところ一人もいない)。
知的所有権のもたらす利益が大きいであることが予測される場合、人はふつう匿名を選択しない。だから、匿名者が知的所有権(いやな言葉だが)を主張しないのは、合理的に推論すれば、自分が発信しているメッセージが知的に無価値であるということを彼ら自身が知っているからである。「これを書いたのは誰だろう?ぜひ、この人の書き物を本にしたい」とか「この人のアイディアでビジネスを始めたい」とか「この人にしかるべきポストをオッファーしたい」ということがありうると思っていれば、誰でも自分が何者であるかを明らかにする。それをしないのは、自分の書き物には学術的先見性であれ芸術的独創性であれ、知的価値のあるものは含まれていないという評価を本人自身が下しているからである。
にもかかわらず毎日数百万、数千万の人々が匿名での発信を続けている。だとすると、「知的に無価値なこと」を書くことによっても、やはり彼らは何らかの「利得」を手に入れていると考えなければならない。人は何の利益もないことをこれほど懸命にはやらない。
この場合に彼らが得ている「利得」はさしあたり「知的所有権」とか「知的価値」というような言葉で実定的に計量できるものではない。
では、彼らは何を手に入れているのだろう。
おそらく、彼らは「他者の逸失利得」を自分の「売り上げ」に計上しているのである。
そう考えてはじめてネット上の匿名の発言の相当数が「批判する言葉」であることの説明がつく。彼らの目から見て「不当な利益を占有している」と思われる他者が、その社会的地位や威信やポピュラリティを失うことを「自己利益の達成」とみなす奇習を身体化してなければ、こういうことは起こらない。
自分自身には直接的利益をもたらさないけれど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶという言論のありようを言う適切な日本語がある。
「呪い」というのがそれである。

匿名の発言の多くが「呪い」の語を発しているということが知れると、「なぜ彼らは自分の書いたものの責任を取ろうとしないのか?」という問いにも自動的に答えが出る。
それは発した言葉が発信者に戻ってくると、それは発信者自身をしばしば致命的に傷つけ、損なうからである。「呪いを発信する人」として知られることは、現代のような近代社会においても、その人の社会的信用を損ない、友人や家族からの信頼を傷つけるに十分である(言葉遣いが激しい場合には刑法上の罪に問われることもある)。だから、mixiのように、発信者が誰であるかを(小さな内輪の集団内では)特定可能である場合には、公共的には匿名性が担保されていても、「呪い」の言葉はほとんど見ることができない。
呪いの発信者として名が知られるということは、現代社会においても致命的だということを彼らは知っているのである。
呪いの言葉は触れるすべてのものを侵す。だから、発信者は自分が吐き出した「毒液」から身を避けなければならない。匿名は毒から身をかわすための「シールド」である。彼らは単に刑法上の罪を問われることを恐れてそうしているだけではない、自分がそのように危険な言葉の発信者であるという事実を自分自身に対してさえ隠蔽したいのである。
しかし、匿名での罵倒中傷によって人を傷つけ、それによって他者がこうむる社会的な損失や心理的な傷をおのれの「得点」にカウントするというこの「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。
私は「呪いの言葉」も「言論の自由」という大義において擁護されるべきかどうかという原理的な問題について考えてみたいと思う。

議論の第一の前提は私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではないということである。
むろん、「日本には言論の自由が存在しない」と主張する人もいる。ある高名な社会学者が最近そう書いていた。けれども現にこの人に潤沢に提供されている発言機会を勘定に入れると、その主張に同意することは私にはできない。少なくとも私の場合に限って言えば、これまで言論の自由を具体的に侵された経験を持たない。さまざまな機会に、私は政治家や官僚や財界人や知識人を批判してきた。学生の頃などは、さらに勢いに乗って、革命による現政権の転覆の喫緊であることなどを書いたけれど、そのときも誰からも「そのようなことは書くな」という圧力を受けたことがない。私が操觚の人となったのちでも、「そのようなことを書いてもらっては困る」ということを言ってきたのは新聞社二社だけである。これらの新聞社はつね日頃から「言論の自由」をたいへん声高に主張しているところであった。彼らもまたさきの知識人と同じく「日本には言論の自由が存在しない」と信じており、「言論の自由が存在しない」という原事実をその寄稿者にまず経験させるべきだと考えたのかも知れない。
冗談で言っているのではない。
「言論の自由は存在しない」ということを平然と言える人間は、まさにその自らの発言に呪縛されるからである。その自己呪縛のメカニズムについては、またのちに論じる。
もう一度繰り返すが、私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではない。そうではなくて、「言論の自由」という概念が誤解されている社会なのだと私は思っている。
私たちは「言論の自由」という概念をどう誤解しているのか。それを解明するために、まず言論の自由についての予備的な確認から始めよう。
私の立てる第一命題は次のようなものである。
あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り口にされる権利がある。
これが「言論の自由」の根本原理と私の信じるものである。およそ人間の脳裏に生じたすべての言葉は、それが人間の脳裏に生じたという一事を以て、何らかの人間的真理を表示している。そして、どのようなものであれ(それが人間の底知れぬ邪悪さや愚かさについての真理であっても)、人間にかかわる真理は沈黙に勝る。
私はそう信じている。「言論の自由」にかかわるすべての推論はここから出発する。
そんなことわかりきったことじゃないかと言う人がいるだろう。そうだろうか。それほどわかりきったことだろうか。私はそうでもないと思う。具体的な例を取り上げてみよう。
少し前にヨーロッパに歴史修正主義という思潮が登場した。その中の一人にフランスの歴史学者ロベール・フォーリソンという人がいて、ナチスのユダヤ人強制収容所にはガス室はなかった、ユダヤ人たちは伝染病で死んだという説をなしたことがあった(この説を真に受けた日本人が『マルコポーロ』という雑誌にそのことを書いて、イスラエル大使館とユダヤ人人権団体の抗議で雑誌そのものが廃刊になったことがあったことをご記憶の方もいるだろう)。当然のようにヨーロッパのメディアはこの説に烈しい攻撃を加えた。
このときアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、「言論の自由」を擁護する立場から、人は誰であれ言いたいことを言う権利があり、とりわけ、その意見が人々の神経を逆なでするようなものの場合は、一層擁護されねばならないと書いた。
「議論の余地なく自明のことは、表現の自由の擁護は自分が賛同する意見にのみ限定されるべきではなく、すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解においてこそ、もっとも力強く擁護されるべきであるということである。」(Noam Chomsky, 'Quelques commentaires élémentaires sur le droit à la liberté d'expression', in Robert Faurisson, Mémoire en Défense, La Vieille Taupe,1980,p.XII)
チョムスキー自身はフォーリソンの説にはまったく同意できないと書いている。説くところには同意できないけれど、私は自分が同意できない科学的理説を公開する権利を擁護したい。チョムスキーはそう述べた。
美しい言葉だ。けれども、私はこのチョムスキーの擁護論に軽々には同意することができない。それはフォーリソンが誰に向かって、何を成し遂げようとしてその言葉を語っているのかということをチョムスキーが問わなかったからである。
ことの真偽はともあれ、それによって傷つく人がどれほどいようと、汚される価値がどれほどあろうと、誰にでも言いたいことを言う権利はあるという言葉に私は同意しない。私たちは無人の荒野で、空に向かって語っているわけではないからだ。
すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。
私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされまい。
発語は本質的に懇請である。私はそう思っている。聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。そして、もし、その言葉がチョムスキーの言うように「すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解」であるならば、それだけ一層、それを提示するときに、受信者に対する敬意がなくてはすまされないと私は思う。
言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。
メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出されるとき、「その正否真偽を審問する場」の威信を認めなければならない。そこで真として受け容れられることを望み、そこで偽として退けられることを望まない、という基本的な構えを放棄するようなメッセージは「言論の自由」の請求権を放棄しているのと同じことである。
「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う。この世界に私の意見に同意する人間が一人もいなくても、私はそれによって少しも傷つかない。私の語ることの真理性は、それに同意する人間が一人もいなくても、少しも揺るがない」という人間には「言論の自由」を請求する権利がない。私はそう考える。
「私は誰の承認も得なくても、つねに正しい」と言う人が「言論の自由」を求めるのは、「すべての貨幣は幻想であり、無価値である」と主張する人間が、その主張を記した自著の印税を求めるのと同じく背理的である。というのは、「言論の自由」とはまさに「他者に承認される機会を求めること」に他ならないからである。
「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名する人間だけに請求権がある。
自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間には「言論の自由」を請求する権利がない。なぜなら、彼の言葉は他者たちの場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。もし、言論の正否真偽を審問する場の成立に先立って、すでに真理である言葉が存在しうるなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信用供与抜きに「言論の自由」はありえない。
むろん、つねに正しく言論の価値を査定する「場」が存在するというのは、ある種の「空語」である。
自由な言論の場では、すべての真なる命題は必ず顕彰され、すべての偽なる命題は必ず退けられると信じるほど私は楽観的な人間ではない。しかし、現実的に楽観的でありえないということと、原理的に楽観的であらねばならないというのは次元の違う話である。
私は「言論の自由が確保されていれば、言論の価値が正しく査定される可能性はそうでない場合よりはるかに高い」ということを信じる。
そして、この信念はそのような「場」に対する敬意として表現されるほかない。
私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど情緒的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。その原理は言語や親族や貨幣のような制度が起動する場合と変わらない。まず他者への贈与があり、それから、運動が始まる。
「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。
もし、言論が自由に行き交うこの場の「価値判定力」を信じなかったら、私たちは何を信じればよいのか。
「場の審判力」を信じられない人間は、「私の言うことは正しい」ということを前件にして言葉を語り出すことしかできない。「お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない」と言わなければならない。
しかし、もしそうだとしたら、彼には「自由な言論が行き交う場」に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。むろん、その場合には、彼の言葉に対するすべての疑問や異議申し立ては「真理」の名において退けられる。だが、そのような言論のありようを「言論の自由」のみごとな実現であると思う人間は一人もいない。
言論の自由とは、まさにその「場の審判力」に対する信認のことだからである。言論において私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。
そのような「場」はレディメイドのものとして、制度的にごろりとそこにある、というものではない。それは私たちが身銭を切って、額に汗して、創り出さなければならないものである。
だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発する当のその瞬間に私たちが「身銭を切って」成就しつつあるものなのである。
むろん、私の差し出したメッセージが「偽」の判定を受けて退けられる可能性はつねにある。だから、私は私の主張が相当数の人にとって「耐え難いもの」であると思われる場合には(例えば私が今主張していることは「理解し難い」ことの一つである)、できる限り論理的に、情理を尽くして、理解を得られるように言葉を選ぶことにしている。
正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。
誤解されないように急いで付け加えるが、この付託は現に他者たちが過たず真偽正否の判定を下すという事実に基礎づけられているのではない。そうではなくて、この付託によって、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができるという事実に基礎づけられているのである。
信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。
そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。
それは「呪い」の対極にあるところのものである。
私たちは今のところ言論の自由をゆたかに享受している。けれども、この事態を「言論の自由など存在しないと言い放つ自由」や「呪いの言葉を吐く自由」に矮小化する人々が「言論の自由」の基盤を休みなく掘り崩してるということについては十分に警戒的でなければならないと私は思っている。