ネットはなぜ攻撃的になるのか?

2018年12月07日 02時35分11秒 | 社会・文化・政治・経済

ネットではなぜ激しい争いが起こるか
掲示板荒らし、ネット上の非難中傷

 小林 正幸 ダイヤモンド社『攻撃と暴力―なぜ人は傷つけるのか (丸善ライブラリー) ...

<iframe frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="728" height="15"></iframe>


ネット上の激しい言葉

 インターネットの掲示板やチャット上でのトラブルは、日常茶飯事である。

 楽しく運営されていた掲示板やチャットが、悪意のある「荒らし」や偶発的な感情的衝突によって、激しい非難や人格攻撃の言葉が飛び交い、すっかり荒れ果ててしまうのは、よくあることである。
 私も、ホームページで犯罪者の心理などを語ると、「被害者の気持ちも考えろ!!!!!!!!!」とか、「お前の家族も同じ目にあってみろ!」など、激しい非難を受けることがある。
 私のネット上の発言に対して、こちらが恐縮してしまうほどの賞賛を下さる方がいる一方で、「お粗末だ」、「くだらない」、といった評価を受けることもある。
 個人的経験としては、面と向かっては言われたことがないような言葉を受けることが、ネット上では珍しくない。
 ネット上のトラブルは、ときには名誉毀損罪、侮辱罪など、法的問題に発展することもある。

(名誉毀損罪:他人の名誉を傷つけ、損害をあたえること。たとえ事実の指摘であっても公共性がなければ犯罪となる。)

(侮辱罪:個人的に言うだけなら単なる悪口でも、ネット上など公の場では犯罪性が出てくる)

 またネット上のコミュニケーションで激しく傷ついた人の中には、外出できないなど神経症的な症状があらわれてしまうこともある。
 バスジャック事件を起こした17歳の少年も、掲示板で傷つき、怒りを爆発させた一人である。

激しい表現の理由:匿名性

 ネットで激しい表現を使う人みんなが、現実世界でも乱暴なわけではない。ネットは人を攻撃的にする面をもっている。それはなぜか。
 まず、ネット上の「匿名性」がある。

心理学の実験によれば、人は自分の名前が知られず、罰を受けないときには、乱暴になりやすい。

 現実生活では、刑罰を受けるかもしれないし、殴られるかもしれない、仕返しされるかもしれないと人は恐れる。だが、ネットでは匿名性というヨロイを着ることができる。

文字だけの世界

 また文字だけのやり取りは、情緒よりも理論が協調されやすい。

相手の発言の隅々まで見て、反論したくなる。反論された人はさらに再反論したくなる。

 人が実際に会って会話するときには、相手の話に相づちを打ち、うなずくことが多い。

これは、必ずしも相手の意見に賛成という意味でなくても、会話の中ではつい「うん、うん」と話をきいてしまう。

 この態度が、相手の感情を和らげる効果をもっている。文字の世界ではこのようなことはあまりない。
 文字の世界ということでは、手紙も同じだが、手紙はメールよりも手間と時間がかかる。その間に、次第に激しい感情も収まり、手紙を書き換えたり、結局投函しないこともある。

 メールは、その場で書き、そのまま送信ボタン一つで相手に送ってしまう。マスコミへの意見も、手紙よりもメールの方が激しい批判が多いようである。

悪意を感じてしまう

 そして人は、自分が見たいと思うものを見る。たとえば、悪意を持った相手からのメールは、悪意あるもののように感じてしまう。

 相手の気持ちを考えるためのヒントが少ないだけに、想像力が発揮される。

こうして悪循環が始まれば、憎しみが増し加わり、非難と皮肉だらけのメール攻撃がなされるのである。
 さて私の場合は、ショッキングなメールをもらった場合には返信までにしばらく時間を置くことにしてある。傷ついた心が時間と共に癒され、相手を論破してやろういう誘惑に勝てるようになるまで。
あるネチケット(ネット上のエチケット)に関するページには、次のようにあった。「面と向かっていえないようなことはネットでも言うのをやめよう。」

正義の味方?

 乱暴な攻撃をしている人を他人が見れば、その乱暴者を悪と見るだろう。しかし、多くの場合、その当人は自分を「善」だと思っている。
 いろいろな場面で悪人どころか、むしろ「正義の味方」として現れて、自分からみた悪人、不適切な人間、どう見ても間違った(と思い込んでいる)発言に対して、激しい攻撃をする人間がいる。
 もちろん、実際に正義の味方が悪人を懲らしめている場合もあるだろう。だが、自称「正義の味方」もたくさんいるかもしれない。
 さて、こんな正義の味方に見込まれてしまうと大変だ。異論、反論はもちろんのこと、賛成できる内容に対して出さえ、もっとこうすべき、もっとこういうページも作るべきと、次々と要求を押し付けてくる。
 こんな正義の正義の味方は、迷惑な話だが、本人に悪意がないのも事実出である。こちらに不十分な点があれば、争わずに謝ってしまうのも、賢明な方法だろう。

心が傷ついたとき

 相手がどのような人であれ、人間関係がこじれそうになったときに、「お詫び」はとてもよく効く薬になる。
 早い段階の謝罪が、その後の長いトラブルを防ぐだろう。
 ただし、謝ることができるためには、こちら側に心の余裕が必要だ。自分が愛されている、認められている、わかる人にはわかってもらえている、そんな余裕があって、はじめて、人に謝る事もできる。
 しかし、人から非難されたり、反論されたときに、相手の言葉とこちらの精神状態によるが、しばしば心が傷ついてしまうことがある。
 心が傷つけば、心を守りたくなる。(心理学的に言えば、「防衛的」になる)

必死になって、自分の正しさを主張したくなる(「正義の味方」の心理だ)。

 そして、文字のやり取りでは、相手の言葉のスミをつつくような言葉の応酬となって、ますます互いの心が傷つき、さらに激しいネット上の争いに発展することもあるだろう。
 争いを防ぐためには、相手の心をなだめるだけではなく、自分の心の癒しが必要なときもある。
 戦うべき相手は、口論の相手ではなく、自分自身の心かもしれない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あおり運転の心理的メカニズム | トップ | なぜ人は匿名だと攻撃的にな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会・文化・政治・経済」カテゴリの最新記事