毒霧殺法で日米で人気を博した“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ(69)が、プロレス人生に別れを告げた。引退試合となった第1試合のメモリアル・マッチ6人タッグ戦に出場。勝利で有終の美を飾った。入場時のヌンチャク、毒霧攻撃、アッパーカットとすべてを出し尽くし、ファンの大声援を浴びた。引退式ではヌンチャクと毒霧を2回噴き、リングを去った。

 引退のテンカウントが終わると、カブキは両手に持ったヌンチャクを振り回し、リング上に静かに置いた。そして、天井に向かって、最後の毒霧を噴き上げた。緑色の霧が、プロレス人生の幕を引くように、カブキの頭上から降り注いだ。

 「ヌンチャクと毒霧はこの仕事をやり始めたときからやっている。リングに置いてきたほうがいいかなと。後は毒霧噴かずに、ホラばっかり吹いていればいい」。汗か涙か、左目から一筋こぼれ落ちた。54年のプロレス人生に別れを告げ「もう思い残すことはない。すべてやってきた」と胸を張った。

 81年、米国遠征中にカブキに変身した。試合後のシャワールームで、口に入った水を何げなく噴き上げると、窓から差し込む光の中で虹になった。それから、口の中に緑と赤の液体を入れた風船を2つ仕込み、毒霧を噴くようになった。忍者などの衣装は自分で縫ってつくった。これが大ブレークし、全米の子どもがメロンジュースといちごジュースを噴き出すようになり、テレビ局へ保護者からのクレームが殺到したという。

 カブキとアンドレ・ザ・ジャイアントの抗争は大人気で、1試合で300万円のファイトマネーを稼いだこともあるという。日本では83年に逆輸入の形で登場。米国で大ブレークしたプロレスラーの第一人者となった。98年8月、50歳の誕生日を前に1度引退した。今回は70歳の誕生日を前に引退を決めた。後進へ贈る言葉を求められるとカブキは「考えているだけじゃだめ。思いついたらやってみること」と、笑みを浮かべながら言った。【桝田朗】

 ◆ザ・グレート・カブキ(本名・米良明久)1948年(昭23)9月8日、宮崎県延岡市生まれ。64年に日本プロレス入団。同年10月31日の山本小鉄戦でデビュー。日本プロレス崩壊後、73年に全日本入団。その後米国を主戦場にし、81年にザ・グレート・カブキとなる。独特のコスプレと毒霧殺法で米国で大人気を博した。98年8月に1度引退するがその後復帰した。180センチ、90キロ。家族は安子夫人(60)と1女。