ふぁっつ・にゅう

 

          多段階発癌説で見た福島県民健康調査と微小癌の経過観察
  
  昨年末にノーベル賞受賞者の益川敏英先生が福島県民健康調査の縮小に反対する意見を出されました。詳細はわかりませんが、おそらく益川先生も甲状腺癌の発生機序が多段階発癌であると考えているのではないでしょうか。つまり、将来悪性化する可能性があるなら早く見つけて早く手術すべきだと。多段階発癌説で考えた場合、福島県民健康調査や微小癌の経過観察のデータがどのように見えてくるか、という点について非常にわかりやすい例があります。日本人で最も有名な癌研究者の中村祐輔先生が甲状腺癌について2015年にコメントをされています(中村祐輔のシカゴ便り 2015−06−12 甲状腺がんの流行 http://yusukenakamura.hatenablog.com/)。内容をかいつまんで言うと、将来的に悪性化する可能性があるものをいくら小さいからと言って手術しないで観察するのは気持ちが悪い、癌は早期診断すべきで検診は推奨すべきものである、と書かれています。これは私の論文とは好対照をなしており、これから癌研究に取り組みたいと考えている若手の方はぜひ比較して読んでいただきたいと思います。 このお二方に共通な考えは、癌細胞というものは良性の細胞が悪性化してできているんだ、ということだと思います。 しかし、少なくとも甲状腺癌は違います。甲状腺癌ですでにほぼ明らかになっているエビデンスとして1)大部分の甲状腺癌は幼少期に発生し、若年のうちは比較的急速に増大し転移もするが、その後は成長を止め患者を癌死させない、 2)患者を癌死させるのは中高年で突然出現する別のタイプのがんである、3)未分化な腫瘍細胞が分化した細胞に変化する現象は観察されるが、その逆は証明されていない、ということがあり、いずれも多段階発癌を否定する事実です。よく、甲状腺癌は変わった癌である、と言われますが私はそうは思いません。1980年代に確立した多段階発癌説がそもそも間違っており、それで説明できない甲状腺癌が”変わった癌”として見なされてきたのだと思います。確かに多段階発癌説に基づくならば、小さな甲状腺癌を直ちに手術しないで経過観察するなどということは中村先生のおっしゃる通りとんでもないことです。決してプログレッションしない癌の存在などはありえないからです。しかし、現実には日本では小さな甲状腺癌を経過観察するのが標準的な診療方針になっています。すなわち、多くの臨床医は今だに多段階発癌説を信じているのにも関わらず、芽細胞発癌に基づく診療方針が既に標準化しているのです。これに関して興味深いエピソードがあります。ある講演会で、演者が微小乳頭癌は経過観察すべきだ、という話をしました。この時同じ演者が甲状腺癌の発生機序として、小さな癌が長い経過ののち悪性化して未分化癌に変化するのだ、という多段階発癌説を説明をしました。当然聴衆は理解できません。すぐに「どっちが正しいんですか?」と質問がでましたが演者は明確な回答ができませんでした。
 福島県民健康調査ですが私はこれ以上被害が拡大しないうちに縮小すべきだと考えています。しかし、多段階発癌説で癌を理解している大多数の研究者にはこの理屈は理解できないでしょう。癌を早期発見・早期治療して何が悪いんだ、と。癌という病気の基本概念が大きく転換しようという時期に原発事故が起きてしまったのは非常にタイミングが悪かったと言わざるを得ません。芽細胞発癌説で発生が予測される過剰診断の問題は2つあります。第1に後でないとわからないことです。過剰診断の判定はあくまで統計学的な解析によるものであり、手術でとってしまう以上、個々の症例で誰が過剰診断で誰が過剰診断でないかは判定できません。したがって、過剰診断があることが明確であってもそれを根拠に医療機関を訴えたりはできないのです。すなわち、福島の子供は一方的に被害を被ることになります。第2に、これが非常に罪作りなのですが、見つかった以上は手術する方が楽だし体裁が良い。見つかったものを経過観察をして結果が悪かったら非難されますが、手術で取ってしまえば全員ハッピーなのです。甲状腺癌を見つけた医師は「早くみつかって良かったですね。」と言える。 手術した外科医は「早く取れて良かったですね。」と言える。そして家族も「早く診断して治療してもらって良かった。」となります。こうして誰もブレーキをかけないままに手術例が積み上がっていきます。近い将来福島を訪れると、あっちにもこっちにも首に傷のある若者がいる、という事態になりかねません。 我々のところでは最近若年者で超音波で偶然見つかった甲状腺癌の症例が紹介されるようになり、これらについては可能な限り経過観察をするように方針を変えています。しかし、これはものすごく大変です。患者も繰り返し経過観察に来なければなりませんし、なによりも経過観察の結果悪い結果が起きるのではないか、と考えると担当医はおちおち安心できません。できることなら見つけてくれるなよ、と、ぐちの一つも言いたくなります。
 最近、韓国の甲状腺癌の過剰診断を報告した安教授とやり取りする機会がありました。韓国では過剰診断が社会問題となって以降、多くの臨床医・研究者が芽細胞発癌を勉強されており、実際韓国での甲状腺スクリーニングは最近減少に転じ手術数も減少しています。なぜ、韓国でできていることが日本でできないのかと、歯がゆい思いです。また、最近では福島県にならって他県の自治体でも子供の甲状腺癌検診を開始していますが、これは非常に危険です。これらの自治体の方々は甲状腺癌の過剰診断の問題についてちゃんと勉強されて実施を決断されたのでしょうか。それとも「早く見つけて何が悪い?」というところで考えが止まってしまっているのでしょうか。過剰診断問題はあまり体裁の良い話ではありません。特にチェルノブイリや福島で甲状腺診療にかかわってきた先生方にとってはあまり触れられたくない話であるのかもしれません。しかし、日本においてももっと過剰診断という問題を胸襟を開いて議論すべき時期に来ていると思います。
(ここに記載している論点は最新の論文で読むことができます。Natural History of Thyroid Cancer Enodcr J Free PDF: https://www.jstage.jst.go.jp/article/endocrj/64/3/64_EJ17-0026/_article)

大阪大学医学系研究科甲状腺腫瘍研究チーム:ホームへ戻る