精神と身体の関係についてパースはどういうことを言っていますか?
物質は退化した精神で、(生き物の)身体は物質の一種であることを合わせて考えれば、身体も精神であることが帰結します。ただこれだと世界を眺めている「私」のような視点と、視点に対して現われる世界の中の現象の関係が謎ですよね。「身体も精神である」と言っても、それは少なくとも身体をコントロールしている「私」とは別の精神ですよね。ライプニッツの言葉で言えば支配的モナドと従属的モナドの違いです。ライプニッツでは、後者が前者に対して前者の身体として現れます。
パースは残念ながらこの点に関してあまり深く論じていないのですが、上で触れたような「視点」の違いで精神と物質の違いを理解していたようです。例えば1892年の"Man's Glassy Essence"で次のように述べています:
「ある物を外側から、他の物との作用・反作用の関係において見るなら、それは物質として現われる。同じ物を内側から、感覚の非媒介的特徴において見るなら、それは意識として現われる。」(EP1: 349)
他所で、第三性を外側から見れば法則として、しかし内側と外側の両側から見れば思考として現れる、といったことも言っています。ただ、上にも書いた通り、パースはこの「内側」の視点と「外側」の視点の区別についてあまり深く論じていないので、「内側」や「外側」といった言葉をどのような意味で使っているのか、正直あまりはっきりしません。この点に関してはライプニッツの方が遥かに鋭い洞察をしていると思います。
パースは残念ながらこの点に関してあまり深く論じていないのですが、上で触れたような「視点」の違いで精神と物質の違いを理解していたようです。例えば1892年の"Man's Glassy Essence"で次のように述べています:
「ある物を外側から、他の物との作用・反作用の関係において見るなら、それは物質として現われる。同じ物を内側から、感覚の非媒介的特徴において見るなら、それは意識として現われる。」(EP1: 349)
他所で、第三性を外側から見れば法則として、しかし内側と外側の両側から見れば思考として現れる、といったことも言っています。ただ、上にも書いた通り、パースはこの「内側」の視点と「外側」の視点の区別についてあまり深く論じていないので、「内側」や「外側」といった言葉をどのような意味で使っているのか、正直あまりはっきりしません。この点に関してはライプニッツの方が遥かに鋭い洞察をしていると思います。