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◆もはや海もない。

2017年12月19日 16時29分37秒 | 聖書
(黙示録二一・一)
輝かしい大海を失うということは、私たちにとって喜ばしいこととは思えない。もし新しい天と新しい地に、キラキラ光る波や貝がらの散らばった砂浜をもつ、広大な海がないと想像したら、そこがより美しいとは思えない。この聖句は、昔、東洋の人々が海に対して抱いていた普遍的な考え方を加味したたとえとして読むべきではないだろうか。海のないこの世界は、想像するだけでも寂しいものである。それは鉄の指輪を尊くするサファイヤが欠けているようなものだ。そこには霊的な意味があるに違いない。
海は国々を分け、人々をお互いに隔てている。しかし新天新地の時代には、そのような隔てはなくなる。パトモス島のヨハネにとって、深海はあたかも牢獄の塀のように、主にある兄弟やヨハネ自身の働きからも彼を遮断した。しかし、来るべき世界には、そのような障壁は全くない。果てしなく続く大波小波が、私たちと、今夜私たちが祈りの中に覚える多くの骨肉との間に横たわっている。しかし、私たちが行く輝かしい世界においては、すべての贖われた家族の、中断されない親しい交わりがある。この意味においては、海はもはやない。
海は変化の象徴である。満潮があり干潮があり、鏡のようななぎと山のような大波、そして、さざ波のささやきと怒濤のとどろきとがある。決して同じ状態に長くとどまっていることがない。海は気まぐれな風と満ち欠けする月の奴隷であり、その変わりやすさはよく知られている。私たちの人生も、たいへん移ろいやすい。この地上では変化は常のことであるが、天国においてはすべての嘆かわしい変化は知られておらず、私たちの希望を破壊し、喜びをおぼれさせるあらしが吹きたける恐れは全くない。鏡のような海は、波によって乱されない栄光に輝く。天国の平和な岸辺には、あらしが吹き荒れることは絶えてない。別離も、変化も、あらしもないその幸福な地に、私たちはほどなく達するであろう! イエスがそこに伴ってくださる。
私たちは主の中にあるか。これが大切な問題である。
 
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