バッグブランド・トゥミのコレクション「TAHOE」から発売された3Wayバッグを傍らに置きながら、玉川大学教授の岡本裕一朗に、20世紀の哲学に大きな足跡を残したジル・ドゥルーズの先見性について話を聞いた。PHOTOGRAPH BY SHINTARO YOSHIMATSU

場所に縛られず働くノマドワーキング、2つ以上の職業を掛けもちするパラレルキャリアといった生き方が話題になったのはいつのことだっただろうか。数年経ったいま、それがかつてほど取りざたされないのは、それが過ぎ去ったトレンドだからではなく、むしろ、語るまでもない常態になってしまったからなのかもしれない。

シェアオフィスで働くことが珍しくもなくなり、コワーキングといった言葉が盛んに語られるいま、会社という固定した空間のなかで、固定したメンバーと働くことは、生産性という観点からすらも、見直しを迫られている。

こうした視点からみると、街中でいまやいたるところで見かける「バックパックを背負ったビジネスマン」も、単に「ラップトップを持ち歩くため、荷物の重量が増えたから」という実利追求だけから生まれたとは思えない。「ノマド化」し移動そのものが常態となりつつあるワーカーにとって、「バックパック」は欠かせないツールとして、大きな意味をもつようになっているはずだ。「スーツにはブリーフケース」という様式は、むしろ現代にあっては、非合理とすら感じられるのかもしれない。

米国の老舗バッグブランド、トゥミの「3 WAY」というスタイルは、まさにそうした時代に対応するものとして、多くのワーカーから支持を集めてきた。同社のコレクション「TAHOE」から、この度発売されたクロスボディ(肩掛けカバン)、ブリーフケース、そしてバックパックにも自在に変化する「スリー・イン・ワン・ブリーフ」は、まさに「ノマド」を常態とし、フォーマルからカジュアルの間をくるくる行き来するような、新しいワーカーたちの動態にふさわしいツールとなっている。

コレクション「TAHOE」から発売された日本限定の「スリー・イン・ワン・ブリーフ」。クロスボディ(肩掛けカバン)、ブリーフケース、そしてバックパックに形態を変えられるほか、キャリーバッグにも装着でき、旅のシーンでも活躍する。PHOTOGRAPH BY SHINTARO YOSHIMATSU

「概念」をつくる哲学者

そもそも「ノマド」という言葉がこうまでして積極的な意味を帯びるようになったのはいつからなのだろうか。

現代社会のさまざまな変化に対して哲学の立場からアプローチを続け、『WIRED』日本版が開講したビジネスパーソン向けプログラム「WIREDの哲学講座」で、メイン講師を務めた玉川大学教授の岡本裕一朗は、20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの名前を挙げる。

「『ノマド』という概念をジル・ドゥルーズが提唱したのは1970年代のことです。けれども、当時わたしは、それが何を意味しているのかがわかりませんでした。のちにフリーターなんていう言葉が流行り出し、具体的な姿を表すようになって、ようやく少し、そのありようを想像できるようになったものです。哲学者の仕事は、概念をつくりだすことだと、ドゥルーズは言いました。実際に彼の言葉のあとを追うように、『ノマド』の意味する遊牧民のような働き方が、現実の社会で当たり前になった。これは、驚くべきことです」

ノマドだけではない。一人ひとりの個人がひとつの職業や会社と強く結びついていた時代が終わりを迎えつつある状況と符号するように、「複数化する自分」という意味での「分人」という言葉がいまにわかに注目を浴びている。小説家の平野啓一郎が、2012年に発表した著書『私とは何か──「個人」から「分人」へ』のなかで語ったのは、『個人』というひとつの統一された生き方が成立しがたい現代で、「他者との関係のなかで生まれる複数の自分」をポジティヴに肯定するという姿勢だった。インディヴィジュアル(個人)からディヴィジュアル(分人)へ。この「分人」という言葉もまたドゥルーズが生み出したものだった。ただ、ドゥルーズが語った「分人」は、いま日本で使われる「分人」と少し意味が異なっていたという。

「晩年の『管理社会について』という論考で、ドゥルーズは『分人』という言葉を使いましたが、それはポジティヴな意味ではありませんでした。現代社会のなかでは、人間のさまざまな行動が逐一データ化されている。いまや人間は分割されたデータのなかに記録されており、統一された個人は存在しない。そういう否定的な意味で、彼は『分人』という言葉を用いたのです」

岡本は、ドゥルーズの著作の日本語訳と原書(フランス語)に加えて、日本ではあまり目にしないドイツ語訳を持参してくれた。PHOTOGRAPH BY SHINTARO YOSHIMATSU

ノマドやパラレルキャリアといったこれからの新しい生き方への期待を先取りしていたというよりも、むしろドゥルーズは、ここではITによって個人が情報化され断片化していくビッグデータ時代におけるアイデンティティ・クライシスをいち早く察知していたように思えてくる。実際、デジタル時代におけるノマドは、常にネットに繋がっている常態をむしろ積極的に後押ししてしまうことで、むしろ自由でない状態を生み出してしまうという、矛盾を孕んでいる。

しかし、それは、ドゥルーズが、多様で複数化された自分という生き方に対して否定的だったことを意味するかというと、決してそんなことはない。

「1970年代の彼は、『欲望する諸機械』や『N個の性』という概念を提唱して、現代社会で分断されながら生きる人間を擁護しました。本来、欲望は多方向に向かっていくもので、それを1つに整えてしまうことはよくないと考え、スキゾフレニア(分裂症)的な人間の在り方を支持したわけです。この彼の思想に、いま日本で使われるポジティヴな意味での『分人』という概念をみることができます。そういう意味では、『分人』という考え方はもともと彼の思想の前提にありました。しかし、先ほども言った通り、ドゥルーズはそれを表現するために『分人』という言葉を使ってはいないのです」

岡本裕一朗|YUICHIRO OKAMOTO
1954年生まれ。哲学・倫理学者・玉川大学教授。2016年に上梓した『いま世界の哲学者が考えていること』〈ダイヤモンド社〉では、人工知能や遺伝子工学など、現代社会のさまざまな問題に対し、世界の哲学者たちの思考をまとめあげた。『WIRED』日本版が2017年に開催した「WIREDの哲学講座」のメイン講師を務める。その他の著書に『12歳からの現代思想』『思考実験 世界と哲学をつなぐ75問』〈ちくま新書〉、『フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ』〈中公新書〉がある。PHOTOGRAPH BY SHINTARO YOSHIMATSU

欲望とデータの緊張関係

冒頭で挙げた「ノマド」、つまり定住を前提としない「遊牧民」のような存在を示す概念も、多様な欲望を擁護するひとつのかたちとして彼が提唱したものだ。つまりドゥルーズは、「分人」とは異なる言葉を使い複数の生の在り方を支持しながら、「分人」という言葉を使ってシステムに分割された人間がもつ困難さをも見通したのだ。

「管理社会のなかで分割された人間が生きる困難さと、欲望に正直に従った多様なライフスタイルの矛盾こそが、彼の取り組んできた基本的な問題でした。ただ、いくら著作をひも解いても、ドゥルーズはそれに対する明確な答えを出してはくれません。開放された欲望がもたらす生の自由さと、多様なかたちでデータ化されていく管理の在り方のあいだの緊張関係こそが、彼の思想のベースにあったのです。だから『分人』のもつポジティヴな側面だけを取り出すことに、あまり意味を見出さなかったのでしょう」

興味深いことに、「分裂」や「多様さ」というテーマを生涯にわたり論じてきたにも関わらず、ドゥルーズ本人の人生は、他人からみるとシンプルなものだった。哲学者として順調なキャリアを歩み、生涯の伴侶は1人だったという。

「1972年に刊行された『アンチ・オイディプス』のなかで、ドゥルーズは同性愛やバイセクシュアルを肯定し、カップルの愛は永続する必要はないと説きました。そうして、当時の社会通念としてあった父と母と子で構成された『家族』という概念を解体しようとした彼は、こんな批判を受けることなります。『ドゥルーズの言うことは嘘っぱちだ。彼には奥さんが1人いて、かわいい子どももいるじゃないか』。しかし彼は、そう言う人たちを笑い飛ばしていたそうです。男性は女性のことを語れないはずはないし、女性のなかでも差別されている女性しか、女性問題を語れないわけではない。誰の言葉であるかは、言葉の価値とは関係がないと信じていたのです」

ドゥルーズは言葉のもつ価値を信じ、多様な人間の生き方を支持した。しかし一方で「分人」という言葉を通して、AIや予測アルゴリズムのデータマイニングの対象でしかなくなってしまいつつある人間存在の困難も言い当てていたことを忘れてはいけない。

それでも、これからの社会に生きるわたしたちが、今後ますますノマド化せざるをえないということが不可避ならば、「分人」としての「わたし」が、より多様でより豊かな生き方をもたらすものとなるよう、不断の警戒や奮闘を怠ってはならないということなのかもしれない。

トゥミの「スリー・イン・ワン・ブリーフ」は、そんな、真の意味において「分人」である、未来のあなたの味方にきっとなってくれるはずだ。

3WAYブリーフケース|TUMI]