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2007年08月08日

サカナの鮮度(維持・保存)

夏だ。暑い。食べ物が傷む。
転じて我々釣り人が旨いサカナを食おうと思えば,この季節ほど釣ったサカナの管理に気をつかう時期はない。

日本は,「魚の鮮度にこだわる」という意味では世界一だと思う。
というのは,原始より魚の生食文化が定着し,刺身,焼き霜(タタキなど),湯霜(湯引きなど),ヅケ(醤油漬けなど),その他ナマスなど和え物等々,というカタチで多様化し,生魚を切っただけの原始的食形態が「料理」と呼ばれるまでに昇華したところにある。これを支えた先達の精進による技術の発達,道具の進化があったことは言うまでもない。

いかなる料理であっても,素材をどのような状態に保つかは,万国共通最初の課題であるが,こと日本の魚食を語ろうとすれば,刺身という特化した「生食」の分野に耐え得る処理・保存法が重要なぶん,その他の加熱調理に対応した処理・保存などと分けて考える場合もあり,若干他国より複雑である。更にサカナ旨み道を追求すれば,「生きて泳いでいる魚をどのような方法で獲り,その後どのようなタイミングでどのような一次処理を施したか」が極めて重要で,総本舗を名乗る当家としては,そこにこだわる視点に至らざるを得ない。

俗に,イチ・生,ニ・焼き,サン・蒸物,ヨン・が煮物で,ゴ・に揚げ物,と。これは,鮮度の良い順に,どのような調理法に適するかという言いならわしであり,魚種やサイズによってはすぐに食べるより暫く寝かせたほうがいいとか,種類によっては生と蒸し物が同列であるとか,いろいろあるにせよ,まあ概ねこんなところではある。しかし,鮮度が高く維持・保存されているほど,当然いずれの料理にも対応可能であることに変わりはない。中期保存方法のひとつである干物の原料にしても鮮度の良し悪しが大きく影響する。やはり「一次処理」およびその前後が大切なのだ。

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【漁法によるストレスの違い】
サカナを“良く”食べようとするとき,その条件設定は,漁法から始まっている。
サカナが漁獲されるとき,我々が食用とする筋肉は,脳の感じるストレスと非日常的運動の両方から影響を受ける。いずれの場合も筋肉中には疲労物質が発生し,そのままにしておくと肉質を低下させる。だからこそ,ひとつは漁法によってサカナの評価が決まるという世界もあるのだ。まずは代表的な漁法によるサカナへの影響を考え整理してみたい。

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【 釣り 】
我々がやる竿と糸の釣りから,たくさんの枝縄に釣り針を付けた“はえなわ”まで,釣りにもいろいろであるが,掛けてから生け簀に活かしたり氷水に漬けたりするまでの時間がサカナの質に関与する。その点,一本釣りであれば速やかに処理できるが,はえなわでは掛かってから苦しむ時間が長いぶん,質は低下する。カサゴやタチウオなど「釣り物」として高値で魚屋に並ぶのを散見するが,これはたいていはえなわ漁業によるもので,その漁業の特性というより,漁獲後の扱いの丁寧さで格が上と言えよう。
私が日常的な釣りをする場合,いかに暴れさせずに,糸を切られることなく,そのバランス点を探りながら手中に収めることを第一義としている。よく言われる“引きを楽しむ”ではなく,そのような技の中に引きの楽しみがあるのだ。メバル釣りにしても,ほとんど音をさせずに抜き上げる技術がある。そうして獲って処理したサカナは,当然最高の状態であるし,日持ちもする。

【 定置網 】
この漁具は,サカナが泳ぐ経路を遮断し,箱形の網に陥れる定置漁法であるため,網の中に入ったサカナ達も,捕まったことを気づかずに網の中で食ったり食われたりするものあり,魚種によっては,たとえばブリなどは一生懸命逃げ口を探して右往左往している。
ストレスがかかるのは網を上げるときだけであるし,たいていは一日一回網を上げるので,網で体が擦れにくく,一般的にサカナの状態は良好である。その点,網を使った漁業の中では最高の品質を維持できると言えるが,やはり問題は水揚げ後の処理のことであり,定置網を上げる船によって,その処理の習慣は違う。だからたとえば,同じ半島に隣り合って張ってある定置網でも,A定置はいいが,B定置はやや格下,というようなことがおこる。たとえばA定置では活け締め作業をおこなっているが,B定置では氷水に全てのサカナを突っ込んでいる,という具合。これがどのような効果になって現れるのかは後述する。いずれにせよ,“定置モン”というだけで,ひいき目に見る事なかれ,だ。

【 刺し網 】
この網は英名をギルネット,すなわち“エラ網”,というだけあって,泳ぐ経路を遮断されたサカナが,この網に頭を突っ込んで,エラ蓋が引っかかってとれなくなったところを上げてしまう。従って必然,ストレスはもとより,死んで揚がってくるサカナも多くなる。狙いの魚種によって,浮き刺し網,底刺し網,中層刺し網,更に群れになるサカナを獲る場合には,まき刺し網といったものもある。いずれにしても原理は同じだ。体のウロコがはげているもの,また,体に絡まった網の糸アトがついているもの,これらは仮に目がキラキラしていたとしても,料理の用途に応じてしっかりと肉質を吟味すべきである。
他方,こんなこともある。サンマの旬は秋と言うが,ホントに旨いサンマは8月。一般的にサンマは「棒受け網」という,光で寄せ集めたサンマを大量に漁獲可能な漁法で獲るが,8月のそれは,サンマが暖かい三陸沖へ向けて南下する前の根室沖の冷たい海で,刺し網で漁獲されたもの。太くて脂の乗りが良くて,このときばかりは,網アトのついたサンマを探してしまうのである。

【 まき網,および底曳き網 】
この2つの漁業は,中・表層にいる魚群を獲るか,中・底層にいる魚群を獲るかの違いこそあれ,網を揚げる時には多くのサカナがひしめき合って,あるいは圧迫され,ストレスが大きいこと甚だしい点において,ほぼ同じと言える。このような漁法では,当然,一尾一尾を締めるなどという余裕はない。
しかし,いわゆる“総菜魚”として,比較的安価に大量に我々の日常生活の魚食を潤してくれることでも共通している。
これらのサカナは,揚がったときには死んでいることも多いが,後述する“野締め”として水氷で締められ,調理法に合わせてちゃんと吟味すれば,ケッコウなものなのである。
たとえば境港は全国一タイの値段が安い港であり,25㎝くらいのマダイが庶民の食卓の吸い物に,半切りして入ったりするのだが,一尾300円程度。これは定置や釣りでは実現しない。巻き網や底引き網あってこそだ。「調理目的に合わせた鮮度レベルの選択」。最適コスト最大効果を模索する上で,これもまた大切なのである。

【 潜水漁業 】
釣り,刺し網,定置網,巻き網,底引き網,ときて,なんでここで潜水?と思われるかもしれないが,実は,後述する活け締めによるサカナ以前に,現場最前線でできる処理としては,この潜水で漁獲されるサカナを適切な温度管理したものの品質が最も良い。というか,要はこの漁法は,漁獲行為と処理行為が一体なのである。潜水漁業とは,つまるところ魚突き,“突き獲り漁法”というやつだ。ここではアワビ・サザエ捕りは省く。潜っていってヤスや銛を用いてサカナを突いて獲ることだ。
遊び半分海水浴がてらシロートの魚突きであれば,魚体のどこに刺さるかわかったもんではないが,熟練の潜水士であれば,狙い違わずサカナの脳天,ないし胸元の心臓を一撃する。こうして漁獲されたサカナは,まさに泳いでいる状態から,次の瞬間,ほとんどストレスがかからないままに即殺・放血されているのである。この点,釣りや他の網漁業の魚質向上の効果をはるかにしのいでいる。荒々しくはあるが,実はこれが活け締めの原型である。
よくよく考えてみると,このあとに述べる“活け締め”とは,この突き獲り漁法の効果をいかに的確に改善して再現するか,ということであることに気づく。人間が知恵を働かせて魚質向上のためにいろいろやったあげく,結局原初の魚突きに戻るとは,いつの時代にも,原点に立ち戻ってその構成要素を見なおすことは大切だと思わざるを得ない。

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【魚を「締める」ということ】
サカナを漁獲したら,それをどのように処理し,保存するか,ということになる。既に述べた,サカナを最高に活かすことができる“突き獲り漁法”であるが,これは突き手によってバラツキがある上に,対象魚種も,潜って獲れる範囲に限られてしまう。そこで,どうするかだ。

およそ脳から背骨に至る神経,いわゆる中枢神経系をもつ生物全般に言えることだが,ひとたび脳が死んで行動が停止すると,体の各部位は,“分解”すなわち分子レベルに向かって変化を始める。特に我々がもっぱら食用とする「筋肉」は,脳死後しばらくは生時と同様柔軟なままであるが,生前の疲労物質の残量に応じて筋収縮を起こし“硬直”する。それが終了すると,筋肉内部では,それを構成する細胞自らが保持している種々の酵素によって自己分解が始まり,最終的には溶けてしまうことになる。溶けてしまえば,本来ならばこれは生態系の循環の中で,次なる生命を育むことに資する。これが地球というひとつのまとまった系の中で生きるということであり,同時に死ぬということでもある。たかがサカナを旨く保つための技術と言えばそれまでであるが,そこに命の生死観を見るのは私だけだろうか。

さて,“鮮度維持”とか“保存”という言葉は,この,生から死,そして自然界の循環に戻る過程のいずれかの段階をいかに引き延ばすか,という可食を前提とした行為にほかならない。更に“サカナを締める”とは,獲ってきたサカナを,可食かつ旨い状態にいかに高度に保つかという人間の知恵である。しかもバラツキ無くより普遍的に。
その技術について整理し,詳細を述べよう。

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【活け締め】
“活けジメ”の要諦は,①即殺,②放血,の二つが不可欠な条件であり,これに③神経抜き,④温度管理,が加わる。これは漁獲されたサカナが硬直に至るまでの時間を少しでも引き延ばして旨み成分をより多く生成せしめ,更に硬直後の分解をゆるやかにして保存性を高めてやる作業である。③の神経抜きは,これらの作業効果をより高めるための副次的処理であるが,④の温度管理はかなり重要で,これをうまくやらないと①~②ないし③の効果を台無しにしてしまう。また,①~③の処理をしない,つまり活け締めを行わない場合であっても④の温度管理は重要な課題には違いない。

① 即 殺
即殺は,特に大型のサカナを締めるときに,「その動きを止め,無用な筋肉疲労を与えないことと,脳から神経を通じて筋肉に伝わる痛み苦しみの伝達を元から絶ってやること」が目的だ。

その手法だが,よく釣り人対応の料理本,ひどい場合にはけっこうちゃんとした体裁の料理本でも,「目の後ろを出刃包丁で刺して活け締めする」などと書いてある。これは必ずしも間違いではないが,この際,きれいさっぱり忘れたほうがよい。
そもそも,目の後ろを包丁で刺して,といっても,何を目的にどこを刺すのか,わかりますか? 要は,脳を,確実に速やかに壊して動きを停止させたいのです。その脳はどこにあるか。サカナによって形状も場所も違うのである。これを理とするならば,脳を壊す役割を果たすのは,手カギであれ氷を砕くアイスピックであれ,細く尖った強固な道具でなければならない。切れ込みを入れることではなく,脳を保護している頭骨を壊すことが目的なのだから。
従って,釣り人がまず持つべき道具としては,手カギでは熟練しないと狙いが定まりにくいので,はじめは短いアイスピック(針が短く太くずんぐりしたやつ)を購入するべきであろう。

そして,まず魚種ごとの脳の所在を知らねばならない。それには,サカナを釣ったら,焼くなり煮るなり蒸すなりして,自ら食べしゃぶって,そのサカナの頭骨の所在をキッチリ認識しておくべきだ。
たとえばアジ・サバ・イサキなどの脳の所在は似ているし,マダイ・クロダイ・チダイ・メジナなど,また,ホウボウ,マゴチ,あるいはカサゴとメバル・スズキなどもそれぞれ似ている。要するに,サカナの体型の系統があって,それに応じて“締め分け”ができれば上等だ。加えて言うと,特にタイ類の頭骨は大型になるほどに堅いので,アイスピックでは勢いがつかない。手カギで締めることとなる。

ついでながら書いておくと,手カギでサカナを即殺するコツは,カギの先端を打ち込む場所を見るのではなく,表面からは見えない脳の所在をイメージして,その一点をのみ注視してそこへ振り下ろすことだ。これは居合い術でワラ束や竹を切るときに,演者は刃を当てる位置を見るのではなく,切り終えた点を意識して刀を振り下ろすのに似ているし,ゴルフや野球で,打者が玉の芯を注視イメージして打ち抜くのと通ずるものがある。やはり力学に基づく技術の原理・道理はすべからく同じなのだ。

アイスピックにせよ手カギにせよ,サカナを水から揚げて,できれば柔らかく厚いスポンジマットなどの上に,頭を右,背を向こう,腹を手前に置いて,サッと左手で目を隠し,おとなしくなった一瞬ののち手を左に滑らせて軽く押さえ,ここぞという箇所にカギを打ち込む,これがタイミングだ。一発で決まらないと,バタバタ暴れて筋肉にストレスを与えてしまうことになる。打ち込んだときに脳を壊せていたら,各ヒレがピンと張り,サカナによってはパクッと口を開けて静かになる。これで完了だ。

ちゃんと脳を壊せたかどうかは,刺身に切ったときの身の透明感,それでわかりにくければ煮魚や味噌汁であなたが頭を食べたときに頭骨をチェックして判明する。はずれていれば,また次はうまくやろうと思う。これでよい。この繰り返しで上手になっていくというものだ。
ここでキーワードをひとつ。「サカナは全て,脊椎動物である」ここからイメージしていくと,初めて接するサカナでも,ちゃんと脳の所在はわかるものですよ。おそれるなかれ。

② 放 血
この作業の目的は,「生臭みの元となる血液を“適度”に抜いてやると同時に,血液による細胞への酸素補給を絶って,筋肉の有酸素分解を抑えること」にある。

サカナが即殺され静かになったら,即殺した置き位置からクルリと背を手前,腹を向こうに持ってきて,左手でエラ蓋を開け,エラの付け根の背骨を出刃包丁で刺すように断ち切り,そのサカナが泳いでいた水を汲んでおき,これにスバヤク静かに浸す。すると,雲が湧き出るようにモクモクと血が出てくるので,それがちょっとおさまったところで引き揚げる。このタイミングはけっこう重要で,しっかり血を抜こうとして漬けすぎると,切り口の身に無用な雑菌が移り,一方,切り口では血が固まって血が逆流してしまう。
また,氷を入れた水で放血する人も見受けるが,これをやると急激な温度の低下で心臓の活性が低くなってしまい,十分な血抜きにならない。あくまでもそのサカナが泳いでいた温度の海水で放血してやるのを最上とする。

ここで,またしてもモノの本に,「尾にも包丁を刺して」「体を折り曲げて」「血を絞り出す」などと書いてあることがあるが,こんなことは絶対にしてはいけない。
即殺して動きを止めても心臓および血管は動いているのでエラ元一カ所だけ切ればいいのに,なぜ尾の血管まで傷つけるのか。こんなことをしたら出場所が二つになってせっかく出ようとする血が逆流してしまう。結果として内部のどこかに血が滞る。
また,せっかく筋肉に疲労物質が生じないよう即殺したのに,その肉を折り曲げてどうするというのだ。こんなことをしたら,筋肉疲労を増やすだけで,せっかくの苦労が水の泡だ。上手に即殺したとしても筋肉に無用な刺激を与えて硬直が早くなってしまうし,刺身の身が白く濁ってしまう。

もっとも,今でも,包丁で目の後ろと尾を刺して体を折り曲げている市場や仲買,魚屋を時どき見受けることがある。それぞれ地域の習慣や流派があるのかもしれないが,私は“勿体ない”,と思うのみ。

うまく放血ができたかどうかは,サカナをさばいたときに判断できる。血栓が生じていないか,おろした身に血がにじんでいないか,そんなところが目安となる。

活け締めという作業は,速やかに,しかし静かに,淡々と,熟練するほどに“美しく”進行するものであって,生命のぶつかり合う威勢のよいショーではない。対象とする生物の成り立ちと,それに対する当方の目的を,よく考え,最善の手法をとるべきと思う。

③ 神経抜き
これは,必ずしも必要がない。が,これをやるとやらないとでは,即殺~放血の効果の持続性が断然違う,というのが事実。この作業の目的は,「脳を壊すことによって,脳から筋肉への伝達は絶たれたが,背骨の中に残っている神経からは,残留している伝達物質が筋肉に伝わるので,これを更に絶ってやる」ということ。神経抜きをするためには,背骨の断面を露出する必要がある。そのためには首を背骨ごとザックリと切ってしまう必要がある。関東の築地ではこのやり方が主流であるが,“姿”を大切にする関西では,これはいけない。そこでどうするか,ということについては後でちょっと述べる。

余談であるが,ウナギの割き方。腹切りに通じると言って関東では背開き,関西では腹開きと定説になっていし,たしかにその通りの習慣であるが,締め方に関しては築地で首切りがよくて関西ではいけない,なんてあたりがオモシロイと思う。

いずれにせよ,とにかく血抜きをするときに首の上半分をザックリと背骨ごと絶ち切り,放血が終わったら持ち上げて背骨の断面を見てほしい。背を上に持って,背骨の真ん中に骨髄が半透明に丸く見え,そこから腹側は,腹骨(アバラ骨)が両方に分かれている。骨髄のすぐ下に白い不透明の細い穴が見えるはずだ。これが神経の経路であって,ここに細い針金(ピアノ線など)を通すと,一瞬筋肉がビクビクッと震えて,神経通しは終了となる。ちなみに血管は,更にその下を背骨に沿って通っている。参考まで。
通す針金の太さが重要で,太すぎれば途中で引っかかってしまうし,細すぎれば十分に神経を壊すことができない。そのあたりを各自熟慮するべきで,何種類かの針金を持っていても悪くないではないか。ステンレス製なら錆びることもない。

ちなみに遠洋はえなわ船で,即殺・放血・神経通しを施したマグロは「シメシメマグロ」と呼ばれ,今日でこそ当たり前になったものの,この技術が導入された当初は新星のごとくもてはやされたものだ。“シメシメ”した証拠として,神経通しした針金ないし樹脂性の細い棒を,通したそのまま残して凍結し,付加価値を上げている船も見受けられる。

④ 温度管理
さて,ここまで終了したら,最後の詰めで気を抜いてはいけない。
ここで言う温度管理の目的は「即殺・放血したサカナを,その効果を最適に持続するため」であって,単にドンドン冷やせばいいというものではない。
一般的にサカナの鮮度というものは氷が維持するものと,半ば常識的に思われがちであるが,たしかに,こと活け締めの世界では,必ずしもそうではない。というところがオモシロイ。次に述べる“野締め”の場合は,氷を絶やすわけにはいかないが,活け締めの場合は,“氷の打ちすぎ”が致命傷となる。これについては過去ログ「スズキの臭み」でも少し述べた。思い出してほしいのは,活け締めが,硬直までの時間を長くして旨み成分を生成させるという点だ。氷は直接大量に用いると,筋肉収縮すなわち硬直を早めてしまう作用がある。せっかく活け締めしても,氷詰めにしてしまえば,これまた水の泡,ということになる。

そこでまず,
● サカナをあまり重ねないこと。
● 表面の乾燥を防ぐためビニールもしくは海水もしくは川水(サカナが棲んでいた水)を浸した濡れ新聞でサカナを包んだら,発泡箱ないしクーラーに横たえる。
● サカナの周辺に,散らばる程度の氷をころがしておく。氷で冷やすというより,ヒンヤリさせてあげる,というイメージ。

以上。
けして水氷に突っ込んだり,大量に氷を投じてはいけない。これをやれば,あっという間に硬直が起こり,活け締めによる本当の旨さは遠くなる,というわけだ。
そしてもうひとつ。
夏なのに氷が少なすぎて温度が上がってしまうと身割れが生じる。
ここのあたりの冷やし加減が,活け締めでは重要。我々ノンプロは,ときどき箱を開けてみて,氷がなくなりそうになっていたら,周囲にちょっと足す,ということでよしとする。

この温度管理は,これまで述べてきた①~③が“作業”であるのに対し,“マメなお世話”という感じです。愛してやって下さいまし。

たかが温度管理であるが,その技術は地域の名物をも産む。静岡県,特に浜松から御前崎にかけての「もちがつお」だ。魚屋や料理屋に「もちがつおアリマス」の幟が立つ。夏の初がつおの季節,当地の沖では曳き縄,すなわち疑似餌を使ったトローリングによるカツオ漁が盛んになる。通常,一本釣りなどで獲るカツオと言えば,すぐさま水氷に突っ込むところであるが,ここではこれを釣れた順に活け締めし,ほとんど氷を打たずに柔らかいマットの上に乗せて港まで持ち帰る。こうした温度管理をされたカツオの味わいは,死後硬直前の,厚めに切られ,ふっくらと箸に身を委ねる刺身をほおばると,つきたての餅を思わせるばかりの優しく口中に絡まる食感と甘みで,なかなかに,旨い。漁場が近く,かつ一次処理後の管理がしっかりされていないと実現しない味なのだ。

【“活け締め”と“野締め”の違い】
ところで“野ジメ”と言うと,自然死したサカナのことと言う方がおられるが,それは違う。活け締めが,生きたサカナに即殺処理を施す行為を指すのに対し,野締めとは,元来サカナが獲れた現場で即殺処理を施す行為を言う。これが原義であるが,今日の水産用語では,たとえばまき網などで大量にアジ・サバ・イワシなどを網で巻いて,いちいち活け締めしている余裕も時間もないので,生きているサカナを水氷に放り込んで殺すと同時に鮮度を維持すること,これを“野締め”,あるいは“ノジ”と呼んでいる。

このやり方だと,氷が安定して効いているうちは高鮮度を保つことができるが,氷が少なくなったり,逆に氷をあとから足して効き過ぎた場合,すなわち,「保存中に温度差が生じた場合」,その度に鮮度は低下してしまう欠点がある。従って,野締めでは,ひとたび生きたサカナを氷水に投入したら,そのままの温度を維持できるよう,ちょうどよい氷の足し方をしてやることが肝要となる。しかしこれがムズカシイから「ああ,ノジモンね」と言われてしまうのである。

そう言われたところで多獲性のアジ・サバ・イワシ・サンマなどではいたし方ないことでサカナのせいではない。漁法の問題なので,それでよしとすべきである。が,一尾一尾個別に扱うことのできるタイやヒラメなどの白身高級魚などは,これではいけないということだ。ノジということで格下の評価が下っても,努力不足・配慮不足ということであって,それまたいたしかたないことだ。

たとえば大分県の関アジ・サバがなぜあのようにあがめ奉られるかといえば,まず第一に,本来は野締めになってしまう運命の青ザカナを“活け締め”しているからだ。そしてそれ以前に,サカナに苦しみを与える時間を短くできる釣り漁業によること,サカナを針からはずすときや市場で扱うときも一切手を触れないこと,更に臭みの原因となる撒き餌を使用していない擬餌針釣りであることだ。

【“アガル”とは?】
活け締めにせよ,野締めにせよ,どちらも“締めてある”わけだ。しかし,その効果が失われる状況が時として生じる。
そこで“アガリ”という表現が登場する。これはアガリモンだな,とか,これはもうアガッてしまったな,などという使い方をする。

具体的にどういう状態かと言えば,市場にもよるが,
① 活け締めあるいは野締めを施したサカナの死後硬直が終了して柔らかくなってしまったもの,
② 漁獲された時点,あるいは漁獲後に常温で自然死したもの。
これらはいずれにしても,三枚におろしたときに身割れが生じたり,胃に残った餌が分解して臭みが生じたり,氷水にふやけて姿が悪かったりと,たいていいろいろな欠点が生じている。
これらをどのように扱うか。正直に伝えて安値をつけるのか,わからない客にはうまいこと言って押しつけてしまうのか,そのへんでその市場の“格”が出る。まあ,築地あたりでは“勝ち鬨橋を渡ったら,どんなウソでもついてよい”などと言われてはいるけれど。つまり,勉強不足でだまされる方が悪いのだ,という,これも一理あること。
一方,我々買い手ないし料理人としては,このようなサカナを目利きして妥当な値段で買い,欠点を克服してどのようにおいしく食べることができるかを考えることも,大切な勉強には違いない。一流店ではダメですけどね。

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【 究極の活け締め「天下の明石」 】
私が知る限り,魚のとり扱いに関する日本一の技術は,かの明石ダイや明石ダコで有名な「明石」にある。もっと正確に言えば,「明石浦漁協」にあるのでアル。既に述べた“活け締め”は,既に述べたような手法であるが,明石の場合は更に奥深く際限がない。魚扱いの奥義の殿堂であると言ってよいと思う。
その工程は次の三つに分かれる

① 活け越し
これは,漁師が獲ってきたサカナをそのまま活け締めするのではなく,海水を循環した水槽にフタをして真っ暗にし,その中で一昼夜,サカナを静養させる。こうすることによって,漁獲によって生じた筋肉中の疲労物質は分解されて正常な状態に戻り,胃や腸に残っていた餌の消化物は全て排泄されて,これが分解して臭みを生じることはなくなる。
一般的に底引き網などで漁獲されたサカナは活魚には適さないと言われているが,明石の場合は,「サカナは原則活けモノ」である。船上での扱いからして,違う,のである。そこに,この活け越しの技術が光る。

② 活け締め
既に述べたとおりであるが,明石では,長い歴史の中で培われ,かつ今日でも進化しつつある活け締め技術が,先輩から後輩に脈々と受け継がれており,しかもその技術の正確さと合理性には目を瞠るものがある。
たとえば明石では,即殺法ひとつにしても,魚種別にやり方が違う。魚種ごとに骨格も違えばサイズによっても違う。これはよく考えれば当然のことなのだが,それをきめこまかく使い分けているところがスゴイ。活け締めの項で説明した「神経抜き」にしても,既に述べたように,関西は首根っこを背骨ごとバッサリ切って神経抜きをするが,姿を大切にする関西ではこれはいけない。ではどうするかというと,たとえばタイ。即殺・放血ののち,シッポの脇からウロコの隙間を突いて頭の方へスッと針金を入れて,ウロコ一枚落とさずに神経を抜いてしまうのである。想像できますか?

③ 以上2つのタイミング
たとえば京都の吉兆,あるいは辻留などの料理屋からタイの注文があったとき,明石浦漁協では,明石から活け締めして送って,到着して料理されたときに最高の味が出るようなタイミングで,時間を逆算してサカナを締める。これはその時期のサカナの性質と味を知り尽くし,なおかつその時期の気温や気候をとらえていないとできない技だ。こうして最適の食べ頃となったタイの刺身は,それは“たまげる味”なのだ。身が活かっているのにしっとりし,透明感があり,うっすらと飴色がかった艶を呈する。肉は弾力があるものの,噛めばジワリと甘みを伝える。

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このように明石のヒミツを書いてしまってよいのか,ということについては,私は全く安心している。当の明石浦漁協にしても同じことを言うはずだ。なぜなら,仮にこれを読んだ人が明石流活け締めの真似をして商売しようとしても,到底ムリ,であることがわかりきっているからだ。明石のすごさは,単に活け締め技術だけではないからだ。

神戸で仕事をしていた当時,私は明石の魅力,これは四季折々変わる豊富なサカナの顔と味,サカナを徹底的に大切に扱う漁師の姿勢,これらを扱う明石浦漁協職員の努力と誇り,そのようにして扱ったサカナを必ず売ってみせる漁協の力量,時代に伴い消費者に薄れるサカナに対する愛着を取り戻す試み等々,これらに取り憑かれ,バイクで日参していた。いずれをとってみても,全国他漁協の追随を許さない。それほどの努力の歴史と,抱える前浜の豊かさがある。

とはいえ,最近は明石も楽観してもいられない。昨今の地球温暖化をはじめとする環境の大きな変化は,瀬戸内海にも着実に現れている。しかしその中にあっても,過去も,今も,これからも,必ず何らかの活路を見いだしてきたし,見いだしていくのが明石浦漁協であると信ずる。私にとって,明石は日本魚食文化のかなめであり、まさに道場であった。

旨いサカナの魅力に取り憑かれた皆様。機会あらば,明石に行かれよ。それぞれの“視点のレベル”に見合ったすごさを,明石は見せてくれる。

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サカナを釣るのに執心するのもいいが,どんなサカナでも旨くすることを考えてほしい。
遊びやゲームで釣る世界はいかにも子供じみていているし,私にはよくわからない。が、あるいは猫が食わないネズミを殺すことと同じなのかもしれない。

しかし、やはり釣りは、“生きた食べ物”を獲ることでありたいと私は思う。
でなければ,何のために他のいのちを苦しませ,あるいは殺したりするのか,理由がみつからない。  

Posted by ウエカツ水産 at 00:23Comments(3)釣・料理・水産

2007年06月20日

メバル道具考【竿】

エラそうにこんなことを書く性分でもないが、釣友(当家ブログの大家さんですけど)との会話の中でこんな事を考えさせられた、というお話。

 誰が言ったか定かではないが,「竿は腕の延長なり」と釣り人の巷にいう。けだし名言だと思う。ある程度の水準を越えた考えるタイプの釣り人ならば,おのずからこう感じるはずだ。
一本のノベ竿を振るとき,小指を中心にキュッと締めて持ち,人差し指は軽く竿に添わせる。こうすることによって手首が自由に動いて定めた狙いに仕掛けを打ち込むことができ,人差し指が竿先の糸やサカナの動きを敏感に関知するアンテナとなる。

 これは魚をさばく包丁にも言えることで,「切っ先は指先なり」というのがそれだ。サカナを三枚におろすデリケートな仕事のときに包丁の峰に人差し指を当てて角度をつけ,これで骨のアタリを感じられるようにする。このときの柄の握り方は釣り竿と全く同じで,小指を中心に固からず締め,人差し指を軽く添わすのである。

 釣り竿にせよ包丁にせよ,かすかな振動がダイレクトに,あるいは増幅されて指先を経由し脳に伝達され,刹那のうちに体の先端にフィードバックされて軌道修正する。この出来事が一瞬のうちに何十回も起こり,その連続でいわゆる竿さばきや太刀筋が決められていく。その「媒体」として道具が存在するということだ。

 釣り道具は,竿もリールも手や腕の動作の補助という意味では同じであり,同じ道具であってもそれを扱う人間側の判断・行動によって働きに差が出るのは当然である。
 が,最近は道具も進化してどんどん機能が向上しており,これまでは釣り人が考え,動きを制御しなければならなかった場面で,道具が自動的に作用してくれるようにもなってきた。かつて難しいと言われた釣りでも,初心者でもそこそこ釣る時代になった。釣っているには違いないが,道具の進化によって「釣った」と「釣れた」が曖昧になりつつある。
 まあ高尚なゲームでない限り,要は釣れればよいわけではあるが,どうも最近の宣伝にあおられ、先進的な道具を追い求め,次々と金を使う風潮を見聞するにつれ,あらためて道具との関わり方を考えざるを得ない。

そんなことで今回は,釣りにおける「道具」と「ウデ=人間の技量」について、まずは「竿」について少し振り返ってみたい。

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【 手釣りと竿釣り,腕か道具か,そのへんの関係と問題 】

 幼年から釣りを始めた私は,ノベ竿から始まり簡易な投げ竿,ブームに乗ったルアー,磯や船など,学生時代を経て通り一遍の釣り歴を歩んだが,長崎で漁船に乗ってサカナを確実に獲ることが日々の課題となってからは,次第に「竿よりも腕」,と思うようになった。

 これは“腕=技量=スキル”ということではなく“アーム”という意味で,つまり,海底の餌や糸やサカナの動きを捉え対応する場合,竿やリールが間に入るより,直接手で糸を持ち扱う方が,より直接的に状況に対する反応も早い,と感じたからである。陸から遠くへ投げるためには竿が必要ではあるが,そのような状況は職漁師ではありえない。

 いろんなサカナを狙ったが,水深150mくらいまでは十分手釣りのほうが手返しも早く,確実にサカナを掛けることができた。事実,商売で獲るタイ,イサキ,タチウオ,アジ,アマダイ,イトヨリなど,また,遊びでやるチヌやグレ,シロギスやカレイやカワハギにいたるまで,手釣りだけでも竿釣り師と遜色なく,むしろ上回る結果を出してきた。誘いがダイレクトで掛けが早い。むろん竿で釣る楽しみはあるにせよ,やはり手釣りのスピードと確実さはズバ抜けていた。

 その後,漁船を降りて神戸に住んでいた15年前,散歩気分でイカナゴ餌のメバル釣りの遊漁船に乗って驚いた。周りは皆,4mはあろうかというヘラ竿を改造したベナベナ調子が完全にオモリに負けて糸をたらしている。こちらはいつものビシマ道具(道糸に小さなオモリを等間隔で打ち,潮吹かれを解消し感度を高めた手釣り道具)だ。先の仕掛けは両者とも同じ。

 かくして結果は,私に釣れたのはほとんどカサゴのみであった。メバルが釣れぬ。前に明石から漁船に乗ったときにはちゃんと同じ仕掛けでメバルが釣れたのに,と思った。
わけがわからぬまま家に帰り,隣の釣り人のお情けでいただいたメバルを食った。このときは,これだけで終わるのである。超軟調子の改造竿はいかにも道楽じみていて,肌に合いそうになかった。次は釣ってみせると力んだところで,釣れない原因が解明できてない以上,瀬戸内海ではそれきりになった。

 更に数年後,私は仕事を東京に移し,毎週末乗り合い遊漁船の魚釣りに没頭していた。特に味覚的に好きだったタチウオ、アジ,アナゴなどであったが、やはり手釣りに分があった。ところが,ここでも「メバルの壁」にぶつかってしまったのである。
 冬場は毎週のようにタチウオをやっていた私に,エビメバルもおもしろいからやってみな,と勧めてくれたのは,東京は浦安の老舗釣り宿「吉久」の2代目親方であった。東京湾の“エビメバル”とは,川エビを餌にやるメバル釣りのことだ。夜はアオイソメを使う“夜メバル”になる。

 瀬戸内海のリベンジとばかりにビシマ仕掛けを持参すると,やはりこれがロクに釣れないのである。ゼロではないが,倍以上も差がついてしまった。カサゴやアイナメは釣れるがメバルはダメ。何度やっても同じであった。わからない。波の動揺を腕で消し,アタリ,送り,合わせ,しているはず。しかし竿釣りよりアタリ自体が少なく,アタってもかからないことが多い。ハリスを長くしたり糸を細くしたりと工夫もしたが同じ事であった。


【 手釣りから竿釣りへ。メバルに合わせる手段としての道具 】

 2回のメバル釣りで惨敗し,親方に釣れぬとぼやくと,これ使ってみなと渡されたのがシマノの竿「幻波マゴチ210」とダイワのリール「チヌジャッカー」のセットであった。1号という細いPEラインがあることも初めてこのとき知った。
 そして3回目,たしかに釣れるようになった。しかも手で釣るより快適に獲れる。前アタリから食わせ,取り込みまで,とりあえず人並みには釣れる。それにしてもいったい何が違うのか。
更に3回ほど通い親方に礼を言うと,彼はニヤリとして別の竿を持ち出してきて曰く,「あの竿もいいけンど,これがホントのメバル竿。見てみなよこの曲がり!これだったら竿が釣ってくれンからよ。ホーラ,こんなに竿先が入ってくべえ」云々。と,天井に竿先を押しつけて語る,なかなかの商売上手である。銘にリョービ社「海波メバル300」とある。

 その竿は,かつて瀬戸内のメバル船で見た改造ヘラ竿のようなベナベナ全調子とは違い,普段はピンとしているが,ひとたび曲がり始めると,竿先3分の1まではスーッと抵抗無く入っていき,そのあとじわじわと抵抗が強くなり,最後の3分の1から手元までは硬い胴がしっかり支えてくれる。今思えば,これが“メバル調子”ということなのだった。先3分の1のガイド数が並はずれて多い。

 もういくところまで行くしかない。その場でその竿を買った。そして,再度メバルに挑み,手釣りで釣れない魚を「竿が釣ってくれる」という現実を,あらためて実感した。モタレが来て,コツないしモゾとくわえ,持ち込みつつ吸い込んだらガガッと突っ込む一部始終が,オモリで底を切ってじっとしているだけで鮮明にわかる竿だ。以後,加速度的に私のメバル釣果は伸びていった。

 ついにメバルの“竿釣り”にのめり込んでしまった私は,メバルの時だけはビシマ仕掛けを捨て,その後,ひたすら様々な検証に没頭した。しまいには仲間で2トンの船を購入し,東京湾で独自の漁場開拓を始めた。その結果見えてきたのは,メバルというサカナの生態のおもしろさと,それに合わせた釣りの特殊性であった。ちょっと書いてみる。


〔船釣りから見たメバルの特性〕

①メバルは,自然界にない異質な動き,たとえば餌の極端な上下運動などを嫌うということ。
②メバルは,異音,たとえばオモリの着底音などを嫌うということ
③メバルの視覚は物体の屈折率の違いを見分ける機能が高く,昼間および水の透明度が高いときには糸を識別するということ。
④メバルの視覚は,夜間は極めて微弱な光でもとらえることができるように機能し,また,水の微弱な振動に対しても敏感であること。
⑤メバルは,夜と昼,明るさの度合い等によって行動や餌の種類が異なり,従って釣り方も餌も変わってくるということ。
⑥夜のメバルは,平行の動きだけでなく上方への動きによく反応するということ。
⑦メバルは,いったん餌をくわえても,違和感があれば離して去るということ。また,大型であるほどその点については神経質であるということ。
⑧メバルは,よほど活性が上がらない限り餌を丸飲みすることはなく,端をくわえてから段階的に吸い込んでいくということ。また,その早さは,潮が強ければ早く,弱ければ遅いということ。
⑨メバルは,通常の活性であれば,餌を食い込んだら底方向へ向かって突進するということ。
⑩メバルは,群れの一尾が掛かってそのままいなくなれば他の群れも散ってしまうが,逆に複数掛けて取り込む場合には群れはそのままであるということ。
⑪メバルは潮によって活性が変わり同時に群れの形を変えるということ(潮が効いてくれば群れはタテに高くなって活性が上がり,潮が止まれば底や障害物付近に沈む)。
⑫メバルは,時化の前後に活性が上がること。
⑬メバルは,潮が強すぎても弱すぎても群れは沈滞し餌を追わなくなること。
⑭メバルは,活性の低いときには目の前に餌が来ないと食わず,また,餌の端をくわえたままジッと静止している場合もあるということ。
⑮メバルの食い渋りには,水温によるもの,潮によるもの,外部からの刺激によるもの,など,それぞれの要因によって釣れ方の内容が異なること。

 思いつくままに列記したが,これだけ書いても一端に過ぎない。
 よくできたメバル竿ほど,メバルにある程度の活性があって基本的な釣り方さえ守っていれば,なんにもしなくても,これらの条件のかなりの部分を補ってくれる。これが「竿が釣ってくれる」ということである。

 しかし,あくまでもそれはひとつの側面であって,常に人並み以上,あるいは人の釣れない悪天候や食い渋りのときにも確実に獲ろうとすれば,道具の性能を越えた部分で人間側が何をするかが課題となってくる。つまり,「竿に補ってもらっていた自分」から脱却し,「竿のできない部分を補う自分」に進化していかねばならない。

 従って,「この竿はいい!」というときの中身は,釣り人の技量によって十人十色であると言えるし,技量の大きい人がいいという竿を,技量の小さい人が使っていいと感じるとは限らない。当然その逆もある。やはり,道具は使いよう。道具は人が選ぶものには違いないが,同時に道具が人を選ぶということも成立するのである。

 それならば,道具の良さというのはあくまでも相対的なものであって絶対的にイイ竿は存在しないのか,と問われれば,実はある,と私は思っている。
「初心者が使えば竿が釣ってくれて,熟練するに従って高度に使いこなせる竿」ということだと思う。

 この要件をメバル竿で求めると,船釣りであれば,先に登場した「幻波マゴチ」と「海波メバル」はひとつの完成型に該当する。この2本は,親から子,子から孫へ受け継がせる価値のある“名竿”である。おそらく既に絶版で,今日に至ってもこれを越える竿は出現していない。
 メバル竿とは言うが,しなり調子と強度面では小メバルからマゴチ,スズキや大ダイまで,ちゃんと狙って獲れる竿であり,食い渋り対応で超スローな誘いのとき,胴突き仕掛けの先端にある小田原型オモリの先端が,瀬の一角にかすかに触れる振動を関知でき,メバルが食えば,自分が釣られたことを感じさせない繊細さを併せ持つ。

 このような調子は、どういうわけか,ほかに出会ったことがない。たいてい,柔らかくてもダラダラと曲がりが鈍重で手元に腰がなかったり,食い込み重視と謳いつつ曲がりが中途半端だったりの竿が多い。「先は極めて柔軟で中ほどにかけて柔らかい腰があって手元は強靱,手元から先端まで張りがあって軽い竿」 これが,なかなか無いのである。

 言葉で表現できても実際にない,ということは,それほど竿作りが難しいということなのか,あるいは制作者が適当なところで妥協しているのか無知なのか,何かの販売戦略があるのか。 いずれにしても,このような名竿が消えていく道理もわからないし,中途半端な道具が氾濫するのも買って使う側の我々にとっては困ったことである。


【 本当に必要な道具は何だろう 】

 刻々と変化する自然条件に対して,メバルほど敏感かつ柔軟に反応して活路を探す魚も珍しい。順応にとどまらず積極的な適応をして生きている。釣り人がそれに合わせることができれば釣れるし,合わなければ釣れない。ただこれだけと言えばこれだけのことだが,メバル釣りの奥深さは,人間側が合わせるべき項目が無数に存在することにあると思う。それをとらえる方向での思考トレーニングおよび技術の修練がまず大切だ。けして道具ありきではない。

 竿にせよリールにせよ,メーカのセールストークや釣り雑誌のグッズ紹介型釣行記事に煽られ,魚種や漁場や魚の状況に合わせてどんどん揃えていてはキリがないのは明らかで,これに乗っては悲喜劇となる。今日主流となっている特殊な事象に合わせて作られる道具というものは,一般的に汎用性が低く,上達するにつれて飽きがくるものが多い。満たすべき要件の根幹からはずれて枝葉に至り,いじりすぎてかえって根幹を見失うことは往々にしてある。

 やはり,手持ちの道具の限界を超えた部分を補ってやれる技量をこそ,磨くべきであろう。その結果,具体的に道具のどのような点が問題であり,それが自分の技量では補えないことが明白になったとき,そこを補う道具を入手すれば,足りる。必然として,道具は少なくて済むのである。ただ、ここまで至るまでに、いろいろ沢山のムダが必要であるのは皮肉なことだ。 だから、良い師を見出すことは、ムダを省く上でも大切なことだ。

 物であれ精神であれ,紆余曲折のあげく贅肉をそぎ落としたあとに残るもの。それが釣りの道のみならず,自分が生きる上で本当に大切なものなのだと思う。メバルに学ぶことは多い。  

Posted by ウエカツ水産 at 18:20Comments(3)