日々、手を合わせるということ

[ コラム ]

日々、手を合わせるということ

 朝、身支度を整えて床の間の仏壇に手を合わせる。おごそかで儀式めいたものではないにせよ、仏さまに手を合わせる行いは、やはり今もわたしたちの日常の流れの中にある。お線香をあげ故人や先祖を想い、また神社に行けば願をかけ手を合わせる。そんな日々の祈りの習慣は、誰に教わるでもなく、わたしたちの暮らしに根づいている。
 かつて、イタリア地方都市・ボローニャに、ジョルジョ・モランディ(1890~1964)という一人の画家がいた。画家は一生涯この地方都市に暮らし、質素なアトリエで、埃の被ったビンや壺など同じモチーフを『ナトゥーラモルタ』(イタリア語で静物画という意味を持つ)と題し、繰り返し描いた。
モランディが描く『静物画』は、目を見張るようなリアリズムの追求もなければ、誰もが驚くような仕掛けがあるわけでもない。作品ごとにビンや壺の位置をずらすなど、細かな小さい差異にこだわり、色彩を慎重に抑制させながら、小さなキャンバスにつつましげに収め、一見ほぼ同じような印象の作品を、丹念に、何枚も形作っていく。しかし、モランディが描いた静物画をみていると、不思議と穏やかな気持ちになる。同じモチーフを繰り返し描くということ、それによって生まれる作品たちになぜこんなにも惹きつけられるのか、ふとこの画家に想いを巡らせてみる。

 ビンや壺など同じモチーフを、日夜繰り返し描く。もはやそれ自体が自分自身に定めた人生のルールであるかのように、律儀に守っていく。彼は一見徒労にもみえるそれらを一生涯続け、ほとんど同じモチーフを、1000枚以上描き残した。私生活でもそのルールを乱すようなアクシデントは避け、作品と地続きのように、変化の少ない日常を求めていたという。おそらく彼は、そのような反復によってしか切り拓けられない境地があることを知っていたのだろう。
 日常的にほとんど無意識のまま、身体が動き出すとき、わたしたちははじめて些細な差異に意識を向けることができる。これまで気に留めなかった些細な変化に敏感になり、その差異は日常の中でしだいに個性を帯びてくる。そんなことを思うとき、仏壇を前に日々手を合わせるというわたしたちの習慣のひとつでさえも、そんなモランディの日常と交わることに気づく。

 反復される行いがあり、その流れに収まらない差異がある。わたしたちはそこにわずかな揺らぎや異彩を感じ取ることができる。揺らぎや異彩は、昨日と今日の心の振れ幅であり、他者とわたしとの「同じでない何か」という世界の認識のズレであり、目には見えない境界のようでもある。そのような差異を日常の中で感じ取り、それを包み込むようなまなざしで見ることができたとき、わたしたちは自分自身や他者を許し合い、請いながらも心の平穏を手に入れることができるのだろう。

 わたしたちは、たゆみのないほぼ同じような日々を生きている。そのような日常にただ身を任せていると、私という個別性や日常での微細なうつろいをつい見過ごしてしまうことになる。
 モランディの絵を眺めていると、実はモランディがそれらを実感するために、リアルな手段として同じようなモチーフを日々繰り返し描いたのではないだろうか、と気づかされる。日々手を合わせ祈るということも、それらを実感するための、わたしたちの尊いしなやかな実践なのではないだろうか。

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