シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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村井さんちの生活

 まだ暑い日はあるものの、琵琶湖周辺はすっかり秋めいてきた。湖水浴客が少なくなったというのに、週末になると県外からの車で国道が大渋滞するのは、近所のスキー場が施設を新しくしたことや、少し北方面に行くと栗拾いができる農園や、散策できる観光地が多いことが理由だろう。紅葉の季節が終わるまで、しばらくは混雑が続くかもしれない。普段通りの生活ができないのは若干面倒ではあるけれど、それでも地元が潤うのは悪いことではないだろうと、窓から見える国道の長い車列を見て思ったりする。

 運動会は無事に終わった。この連載を読んでくれているという数人のママたちから、「ホンマに泣いてんのか確認しにきたで!」とか、「ちゃんとハンカチをもってきたか心配だったんや!」などなど話しかけられたものの 、結局、私は例年通り、子どもたちの競技からは若干距離を置き、静かに観戦して、あっさりと運動会を終えてしまった。いやもちろん、子どもたちの成長した姿は頼もしかったし、先生方が忙しく動き回る姿に感謝もしたのだけれど、実は、私はそれとはまったく別のところで、打ち震えるほど感動していたのだ!

 運動会の楽しみといえば、お弁当である。子どもにとっては、いつもと違う環境で食べる豪華なお弁当や、それをお友達や家族と一緒に食べた記憶は、長く心に残るだろうと思う。そして実は、私も相当楽しみにしているのだ。自分の作る献立の味に飽きてしまっている私は、それがどれだけシンプルなものであろうとも、「誰かが作ってくれた何か」に相当飢えている。数年前から、一緒に観戦する数家族がお弁当をテーブルに広げ、立食パーティーさながらにいろいろなメニューを楽しむ…という弁当友の会(のようなグループ)に参加するようになった。参加する側からすると、ほんの数種類の総菜を作って持って行くだけで、他のご家庭の味を堪能できるという利点があって、端的に言えば最高である。働く母たちが苦し紛れに絞り出した知恵とでも言えるだろうか。そんなこんなで、毎年お弁当の時間は随分と賑やかになる。

 今年、私はサンドイッチを持っていった。例年はもう少し頑張るのだが、今年の夏はとにかく忙しく、献立を考える余裕も、作る体力も残されてはいなかったのだ。他のお母さんたちに申し訳ないとは思いつつも、「今年はどうぞよろしくお願いします」と、手を合わせるような気持ちで、朝6時に起きてサンドイッチを作って持って行った。

 例年であれば、観戦用のタープテントを張る場所にいち早く到着している、しっかりもののお母さんが、今年はなぜかいなかった。あれ、おかしいなと思いつつ、連絡を入れるが繋がらない。仕方ないので自分の荷物を置いて、持ってきたタープテントを組み立てはじめると、やっとのことで当のお母さんが息せき切ってやってきた。山ほどの荷物をカートに載せて、そのカートから大きな風呂敷包みを二つ取り出しながら、「実は、車を当ててしまったんよ。他のお母さんに送ってもらったから遅くなっちゃった」と彼女は言った。「エッ! 大丈夫だったの!?」と驚いて聞くと、「後ろのガラスが全部割れてしまったわ」と、笑いながら言う。咄嗟に「怪我は?」と聞いたが、それは大丈夫だと彼女は言った。そして、その風呂敷包みを運ぶ手伝いをしはじめた私は、ふと気づいた。なんだ、この風呂敷包み、すっごく重いぞ!

 中を見てみると、それはおにぎりだった。その数、たぶん50個ぐらい。まだ温かい。ラップに一つ一つ丁寧に包まれたそのおにぎりは、ぱっと見ただけで新米とわかるほど、ピカピカに輝いていた。すごくおいしそうだねと声をかけた時、彼女の手が少しだけ震えているのに気づいた。車を当てた直後で、動揺していたのだろうと思う。「今日はなんだかおかしいわ」と言いながら、あたふたとしていた。大きなトラックを自在に操るほどの技術を持つ彼女が、車をバックさせて電柱にぶつけるだなんて、相当焦っていたに違いない。場所取りをしなくちゃ、早く行かなくちゃと急いでいただろうことは容易に想像できた。

 「これって一升ぐらい?」と聞くと、彼女は明るく「一升八合!」と答えた。一升八合! 朝からそれだけ炊いて、そしておにぎりにしてきたの? きっと四時起きじゃないの? 自分の子どもの登校準備をしながら、ぎりぎりまでおにぎりを握っていたはずだ。そう気づいた瞬間に、なんともいえない気持ちになった。私はと言えば、忙しいことを理由にして、簡単にサンドイッチを作り、タッパーに詰めただけ。忙しいのはお互い様なのに、苦労をかけてしまったと反省した。

 おにぎり、うめえ! と大声で子どもたちが喜ぶのを、彼女はうれしそうに見ていたと思う。たしかに、そのおにぎりはとてもおいしかった。海苔はその場で巻けるように、別途用意してくれていたけれど、だれもそのパリパリの海苔を巻こうともしなかった。海苔が邪魔になるのではと思えるほど、新米のおにぎりは、そのままで十分おいしかった。「誰も海苔を使ってくれへんわ、ショック~!」と言う彼女に、海苔なんていらないからだと思うよと、言おうと思ったけれど、恥ずかしくて言えなかった。

 誰かが作ってくれた何かに飢えていたはずの私は、誰かがしてくれた親切な行いに、一人、静かに感動していた。運動会翌日が誕生日で、ダンナさんと遠くのレストランに車で行く予定だった彼女は、「仕方ないからトラックで行くわ」と笑っていた。ダンナさんも、車のガラスが割れたと腹を立てるでもなく、「トラックやな」とあっさり言っていた。

 後日、スーパーでばったり会ったので、おにぎりのお礼を言うと、「いいよいいよ」と笑っていた彼女。一週間後、今度は新米を持って立ち寄ってくれた。「やだ~、いいのにぃ~! え、本当にいいの!?」と、遠慮は1分であっさり済ませ、ありがたくいただいた新米は、彼女の話によると、所有する田んぼで育てたものらしい。

 秋の実りも、お母さんの気持ちも、すべてとてもありがたい。そんな季節だ。

 

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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