ABC
1
永祿4年3月5日武田晴信、上原能登守等を信濃海津城に入城せしむ、
2
永祿4年3月7日長尾景虎、上杉憲政を奉じて、上野沼田城より、相模に入る、尋で、景虎氏康、氏政父子を小田原城に攻め、氏康、今川氏真、武田晴信の援兵と共に、之を防ぐ、景虎、軍を班して、鎌倉に入る、小田原城の戦い
3
永祿4年閏3月16日越後守護代長尾景虎、上杉憲政の譲を受けて、関東管領と為り、上杉氏を継ぎ、名を政虎と改む、仍りて、是日、足利義氏の家宰簗田政信に、義氏の擁立を約す、関東管領就任
4
永祿4年是春松平元康、織田信長と和し、松平好景をして、今川氏真の部将板倉弾正を三河中島に攻めしむ、弾正敗走す、
5
永祿4年5月28日武田晴信の部将大森掃部助、信濃鰐ヶ嶽城を攻む、是日、晴信、掃部助の戦功を賞し、所領を充行ふ、
6
永祿4年6月7日武田晴信、上杉政虎の属城信濃割ケ嶽城を攻めて、之を陥る、
7
永祿4年9月10日上杉政虎、武田晴信と信濃川中嶋に戦ふ、晴信、傷き、弟信繁戦死す、第四次川中島の戦い
8
永祿4年11月27日北條氏康、武田晴信に応じ、武蔵松山城を攻む、近衛前嗣、下総古河城より之を上杉政虎に報じ、赴援を求むるに依り、政虎、出陣す、是日、政虎の兵、氏康の兵と武蔵生山に戦ふ、
9
永祿4年12月9日下野佐野政綱等、足利藤氏に背き、北條氏康に応ずるに依り、上杉政虎、武田晴信及び氏康を撃ちて、藤氏に謁せんとし、之を長尾満景に報ず、唐沢山城の戦い
10
永祿4年12月15日武田晴信、北條氏康と共に、倉賀野直行を上野倉賀野城に攻む、是日、上杉政虎、直行の部将橋爪若狭守の戦功を賞す、
11
永祿5年1月6日上杉輝虎、上野館林城を攻めんとし、同国小泉城将富岡重朝の参陣を督促す、
12
永祿5年1月是月松平元康、尾張清洲に赴き、織田信長と盟約す、信長、又林通勝及び菅谷九右衛門を岡崎に遣して、之に答謝す、清洲同盟
13
永祿5年2月17日上杉輝虎、赤井文六を上野館林城に攻めて之を陥れ、文六、武蔵忍城に退く、輝虎、長尾富長をして、館林城を守らしむ
14
永祿5年3月14日上杉輝虎、佐野寶衍を下野佐野城に攻めて克たず、是日、北條氏照、寶衍に之を賀し、其情勢を問ふ、唐沢山城の戦い
15
永祿5年6月是月今川氏真、松平元康の属城三河一宮砦を攻むるに依り、元康、之を赴援す、氏真、武田信虎の、駿河に在りて異心を懐くと聞き、軍を班す、
16
永祿5年9月16日信濃長姫城将坂西長忠、同国松尾城将小笠原信嶺の所領を侵すに依り、信嶺、武田晴信の兵の援に依り、長忠を攻めて、之を殺す、是日、信嶺、清水但馬入道の戦功を褒す、尋で、晴信、秋山信友をして、長姫城を守らしむ、
17
永祿5年11月24日武田晴信、北條氏康と共に上野、武蔵に於ける上杉輝虎の属城を攻略し、尋で、武蔵松山城を囲む、是日、輝虎、太田資正の請に依り、越後府中を発し、関東に出陣す、
18
永祿6年2月4日北條氏康、武田晴信と共に上杉憲勝を武蔵松山城に攻め、是日、之を陥る、仍りて、上杉輝虎、上野沼田より退きて、利根川端に陣す、
19
永祿6年4月15日上杉輝虎、佐竹義昭及び宇都宮広綱と共に小山秀綱を下野祇園城に攻めて、之を陥れ、尋で、佐野昌綱を同国佐野に攻む、是日、輝虎、陸奥蘆名盛氏に戦況を報ず、唐沢山城の戦い
20
永祿6年是春織田信長、齋藤龍興を美濃稲葉山城に攻めて、克たず、
21
永祿6年12月5日武田晴信、上杉輝虎の部将倉賀野直行を上野倉賀野城に攻む、
22
永祿6年閏12月5日北條氏康、武田晴信と共に上野金山に向ふに依り、上杉輝虎、同国小泉城将富岡重朝をして、太田資正、成田左衛門二郎と共に上野桐生に出陣せしむ、
23
永祿6年閏12月19日上杉輝虎、上野厩橋城に入る、尋で、同国和田城を攻む、
24
永祿7年1月29日常陸小田氏治、北條氏康に応ずるに依り、上杉輝虎、佐竹義昭及び宇都宮広綱と共に之を小田城に攻む、是日、氏治、敗走す、山王堂の戦い
25
永祿7年2月17日下野佐野昌綱、北條氏康に応ずるに依り、上杉輝虎、之を佐野城に攻む、尋で、輝虎、佐竹義昭、宇都宮広綱の請に依り、昌綱を免じ、長尾虎若丸を其嗣子と為すを約す、唐沢山城の戦い
26
永祿7年3月10日義輝、大覚寺義俊を遣し、上杉輝虎と、北條氏康及び武田晴信との和を図らしむ、尋で、又輝虎に之を諭す、
27
永祿7年3月是月上杉輝虎、原胤貞を下総臼井城に攻む、千葉胤富、北條氏の兵と共に胤貞を赴援するに依り、輝虎、敗績す、
28
永祿7年4月15日武田晴信の兵、信濃尻城を攻略す、是日、蘆名盛氏、晴信の誘に依り、小田切弾正忠をして、越後菅名荘を侵さしむ、尋で、上杉輝虎の兵、蘆名氏の兵を菅名荘に破り、又野尻城を復す、
29
永祿7年6月4日北條氏康、氏政父子、上杉輝虎の党下野小山秀綱及び佐野昌綱を攻めて、克たず、是日、輝虎、昌綱の部将小曽戸善三郎等の戦功を褒す、
30
永祿7年7月29日上杉輝虎、越中の諸将をして、飛騨三木良頼、江馬輝盛等を援け、武田晴信の党輝盛の父時盛等を攻めしめ、是日、信濃に出陣して、晴信を牽制す、尋で、時盛等降る、
31
永祿7年8月3日上杉輝虎、武田晴信と戦はんとし、信濃川中島に著陣す、仍りて、輝虎、常陸佐竹義昭をして、上野、武蔵の国境に出陣し、北條氏康の兵を牽制せしむ、第五次川中島の戦い
32
永祿7年10月27日上杉輝虎、上野厩橋、同国新田、下野足利等の諸城を陥れ、北條氏政の陣に逼る、氏政敗走す、是日、輝虎、佐野昌綱を下野佐野城に攻め、之を破る、唐沢山城の戦い
33
永祿8年2月22日武田晴信、上野に入る、由良成繁、之を同国堀口に拒ぐ、
34
永祿8年3月23日義輝、重ねて、上杉輝虎、北條氏康に諭し、媾和せしむ
35
永祿8年3月27日本願寺光佐、(顕如)、武田晴信に好を通じ、上杉輝虎に応ぜざること及び晴信と議りて、越中の備を為すことを盟ふ、
36
永祿8年5月19日征夷大将軍参議従四位下足利義輝、三好義重、(義継)、松永久秀等に弑せらる、永禄の変
37
永祿8年6月25日武田晴信、上野倉賀野城を陥れ、長野業盛を同国箕輪城に攻めんとし、又北條氏康、酒井治胤を上総土気城に攻む、是日、上杉輝虎、上野小泉城将富岡重朝をして、北條高広と議り、西上野に備へしめ、自ら信濃に出兵し、晴信を牽制せんとす、尋で、輝虎、安房里見義弘をして、太田資正を案内者と為し、武蔵に出陣せしむ、倉賀野城
38
永祿8年7月27日上杉輝虎、加賀の諸城を攻む、是日、伊達輝宗、之を音問す、
39
永祿8年11月13日織田信長、其養女をして、武田晴信の子勝頼に嫁せしむ、
40
永祿9年2月16日上杉輝虎、佐竹義重と共に小田氏治を常陸小田城に攻め、是日、之を陥る、小田城
41
永祿9年3月是月上杉輝虎、千葉胤富の部将原胤貞を下総臼井城に攻む、胤富、之を赴援するに依り、輝虎、軍を班す、臼井城の戦い
42
永祿9年5月9日上杉輝虎、越後、上野、下野、安房等の静謐及び足利義秋(義昭)の意に従ひて北條氏康と和し、武田晴信父子を滅して、上洛し、京都、鎌倉両公方を擁立せんことを神仏に祈る、
43
永祿9年8月22日織田信長、足利義秋(義昭)の命に依り、近江矢島に出兵せんとし、果さず、
44
永祿9年8月25日足利義秋、(義昭)、上杉輝虎、武田晴信及び北條氏政をして、媾和せしむ、是日、氏政、重ねて、晴信を諭されんことを義秋に請ふ、
45
永祿9年8月26日本願寺光佐、(顕如)、武田晴信の、上杉輝虎の加賀出陣に乗じ、信越の国境に出陣せんとするを謝す、
46
永祿9年閏8月8日織田信長、齋藤龍興を美濃に攻めて、敗績す、
47
永祿9年閏8月18日足利義秋、(義昭)、入洛せんとし、尾張織田信長をして出兵せしむるに依り、美濃齋藤龍興をして、信長と和せしむ、是日、龍興、之を武田晴信に報ず、
48
永祿9年閏8月19日上杉輝虎の兵、上野沼田に出陣するに依り、武田晴信、部将をして、之に備へしむ、
49
永祿9年9月24日織田信長の部将木下秀吉、美濃墨股に城き、蜂須賀正勝等を糾合して、是日、同国齋藤龍興の兵を破る、墨俣城
50
永祿9年9月29日武田晴信、上杉輝虎の部将長野業盛を上野箕輪城に攻め、是日、之を陥る、箕輪城
51
永祿10年2月12日下野佐野昌綱、上杉輝虎に抗するに依り、輝虎、佐竹義重、小山秀綱、太田資正等の参陣を督促し、是日、昌綱を佐野城に攻む、唐沢山城の戦い
52
永祿10年2月24日足利義秋、(義昭)、上杉輝虎を諭し、武田晴信、北條氏康を和して、上洛せしむ、
53
永祿10年3月15日佐竹義重、結城義親を陸奥白河城に攻め、又武田晴信に通ずるに依り、上杉輝虎、義重と絶ち、義親に好を通ず、
54
永祿10年是春織田信長、瀧川一益をして、伊勢北境の諸城を攻略せしむ、
55
永祿10年5月5日武田晴信、上野惣社城を攻略す、是日、晴信、同国瀬下豊後守の戦功を賞し、所領を充行ふ、
56
永祿10年8月7日信濃原虎常等、武田晴信に異心無きを誓ふ、
57
永祿10年8月15日織田信長、美濃三人衆の内応に依り、齋藤龍興を同国稲葉山城に攻め、是日、之を陥る、尋で、信長、之に移る、稲葉山城の戦い
58
永祿10年8月17日武田晴信、嫡子義信を殺し、其室今川氏を離別するに依り、今川氏真、北條氏康と謀り、甲斐への塩の輸送を停む、仍りて、是日、氏真の部将葛山氏元、其部下鈴木若狭守、同武藤新左衛門尉及び同芹澤玄蕃允をして、停止以前の塩荷等の過書銭を上納せしむ、
59
永祿10年8月是月織田信長、伊勢に入り、楠城を陥れ、山路紀伊守等を同国高岡城に攻む、尋で、軍を班す、
60
永祿10年11月21日織田信長、子信忠の為に、武田晴信の女を娶らんとし、是日、納幣す、
61
永祿11年3月6日足利義秋、(義昭)、武田晴信及び北條氏康の、上杉輝虎との和与を諾する請文を呈出するに依り、之を輝虎に報じ、速に同心して、上洛せんことを求む、
62
永祿11年3月13日上杉輝虎の部将本庄繁長、武田晴信に応じ、居城越後本庄城に據る、尋で、輝虎、諸将をして、之を攻めしむ、
63
永祿11年3月16日上杉輝虎、越中守山城を攻めんとす、是日、同国勝興寺顕栄、之を其党坪坂伯耆入道に報ず、
64
永祿11年5月4日越後本庄繁長、鮎川治部大輔等を同国鮎川城に攻む、是日、上杉輝虎、鮎川盛長をして、治部大輔等を赴援せしむ、
65
永祿11年6月25日武田晴信、上杉輝虎と和せんとし、織田信長に斡旋を依頼す、是日、信長、輝虎の部将直江景綱に意見を問ふ、
66
永祿11年7月10日武田晴信、越後本庄繁長を赴援せんとし、上杉輝虎の属城信濃飯山城を攻む、
67
永祿11年7月16日越中松倉城将椎名康胤、上杉輝虎に背き、本願寺光佐(顕如)及び武田晴信に通ず、是日、晴信、同国勝興寺顕栄をして、越後を攻めしむ、
68
永祿11年7月25日足利義昭、越前より近江を経て、美濃に到る、織田信長、之を立政寺に迎ふ、
69
永禄11年8月7日織田信長、近江佐和山城に赴く、足利義昭上洛のことに就き、六角承禎を招く、承禎応ぜず、信長、岐阜に帰る、
70
永禄11年8月18日武田信玄、越中の椎名康胤及び越後の本庄繁長等と結び、兵を北信濃に出し、飯山城に迫る、上杉輝虎、之を聞き、各地の守備を厳にし、其状を直江景綱、柿崎景家に報ず、
71
永禄11年9月12日織田信長、近江箕作城を抜く、六角承禎父子、観音寺城を棄つ、伊賀に奔る、観音寺城の戦い
72
永禄11年9月26日織田信長、足利義昭を奉じて入京し、義昭を清水寺に館せしめ、自ら東寺に陣し、細川藤孝等をして、皇居を護衛せしめ、又兵を遣して、勝龍寺城を攻めしむ、
73
永禄11年9月26日織田信長、山科郷粟田口等を火き、三好氏の兵と久我に戦ふ、
74
永禄11年9月29日足利義昭、織田信長の軍、山城勝龍寺城を陥れて摂津に入る、諸城風を望んで潰ゆ、義昭、摂津芥川城に移る、
75
永禄11年9月是月小笠原長時、摂津芥川城を逃れ、越後の上杉輝虎に頼る、
76
永禄11年10月2日織田信長、池田勝正を摂津池田城に攻めて之を降す、高槻、茨木の諸城亦降る、
77
永禄11年10月2日織田信長、松永久秀をして大和を領せしむ、
78
永禄11年10月10日織田信長、和田惟政、細川藤孝、佐久間信盛に命じ、松永久秀を援けて、大和の諸城を攻めしむ、
79
永禄11年11月7日上杉輝虎、本庄繁長を越後本庄城に攻む、
80
永禄11年12月6日武田信玄、軍を率ゐて甲府を発し、駿府に向ふ、
81
永禄11年12月12日武田信玄、今川氏真の兵を、駿河薩埵山より逐ふ、
82
永禄11年12月13日武田信玄、駿府に入る、今川氏真、遠江懸川に逃る、
83
永禄11年12月13日今川氏真の将三浦与一郎、武田信玄に応じ、徳川家康の質久松勝俊を、甲斐に送る、
84
永禄11年12月23日武田信玄、書を徳川家康に遺り、遠江懸川城に迫らんことを求む、
85
永禄11年12月是月武田信玄の将秋山信友、遠江に入る、徳川家康、使者を信玄に送り、其背約を責む、信友、駿河に退く、
86
永禄12年1月7日北条氏照、屡使を上杉輝虎に遣して、越相の和議を図る、更に書を輝虎及び其将直江景綱に遣して、之を促す、越相同盟
87
永禄12年1月9日越後本庄城主本庄繁長、夜に乗じて、上杉輝虎の営を襲ふ、輝虎、撃ちて之を退く、
88
永禄12年1月13日上杉輝虎、三瀦政長に命じ、大川長秀と謀り、出羽大宝寺義増の援兵を俟たずして、同国藤懸城を攻めしむ、長秀等、義増の兵と共に、藤懸城を攻めて利あらず、
89
永禄12年1月26日北条氏政、伊豆三島を発し、駿河薩埵山に拠る、武田信玄出で、興津に陣す、
90
永禄12年1月26日今川氏真、使僧を上杉輝虎に遣し、兵を信濃に出し、武田信玄を牽制せんことを求む、
91
永禄12年2月1日武田信玄の将穴山信君、葛山氏元等、今川氏真の属城駿河大宮城を攻め、敗れて退く、
92
永禄12年2月10日上杉輝虎、飛騨三木良頼に越後本庄城攻囲の形勢を告げ、兼て駿河、甲斐、相模三国の形勢を問ふ、良頼之に答へ、且輝虎の織田信長と提携せんことを勧む、
93
永禄12年2月24日武田信玄、信濃の士芋川親正に、雪解を竢ちて、越後に出陣すべきことを告ぐ、
94
永禄12年3月2日叡旨を織田信長に伝へ、副将軍に補せられんとす、信長、奉答せず、副将軍
95
永禄12年3月7日北条氏政、遠山康光を上杉輝虎の許に遣し、武田信玄との対陣の切迫せる状を告げて、其出兵を求む、
96
永禄12年3月13日武田信玄、下総関宿城主簗田政信を誘ひ、兵を武蔵に出して、北条氏政を攻めしむ、
97
永禄12年3月13日北条氏政の兵、武田信玄の兵と、屡駿河興津及び薩埵山に戦ふ、信玄の兵、復薩埵山を襲ふ、
98
永禄12年3月23日武田信玄、上杉輝虎の南下を恐れ、市川十郎右衛門尉を織田信長に遣して、甲越和議の為め、尽力せんことを求む、
99
永禄12年3月26日越後本庄城主本庄繁長、伊達輝宗、蘆名盛氏に頼り、其子顕長を質として、降を上杉輝虎に請ふ、輝虎、之を許す、
100
永禄12年3月是月上杉輝虎の将大川長秀等、出羽藤懸城を陥る、