逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

日英同盟→日独伊3国同盟→日米同盟

2018年09月27日 | 社会・歴史
渡邉英徳‏ @hwtnv

78年前の今日。1940年9月27日,日独伊三国同盟締結
写真は12月17日に開かれた「署名を祝う会」に集まった子どもたち。大久保留次郎東京市長・橋田邦彦文部大臣も登壇。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正


ヒトラーが出席した1939年05月22日の「独伊軍事同盟」締結を伝えるアメリカの新聞紙面。

第二次世界大戦(1945年9月)勃発4ヶ月前の1939年5月22日に独伊両国は『鋼鉄協約』(ドイツとイタリアの間の友情と同盟の協約)を締結したが、ドイツのポーランド 侵攻が現実味を帯びてくるとイタリア軍部は参戦に尻込みするようになった。
日清戦争に勝利した日本は1902年1月30日イギリスとの間に初めての軍事同盟(日英同盟)を結び、2年後の1904年(明治37年)2月8日 日本とロシア帝国の戦争に突入する。第一次世界大戦で日本は1914年(大正3年)8月23日ドイツ帝国へ宣戦を布告し中国青島や南洋諸島などを獲得。講和条約後の1923年8月17日に日英同盟は失効した。
1933年1月に政権を奪取したナチス(ヒトラー)は1937年11月06日「日独伊防共協定」→ 1939年05月22日「独伊軍事同盟」→ 1940年09月27日「日独伊三国軍事同盟」と進化させていった。
★注、
ロシアの脅威を理由に成立した日英同盟のように、軍事同盟は必ず共通の仮想敵国を想定して結ばれていて、日露戦争や第二次世界大戦など国家存亡の危機(戦争)に繫がっていた。(父祖伝来の国土の回復を唱えたナチスの経験から憲法で個別的自衛権を否定し集団的自衛権だけを合法とするドイツではNATOに加盟した結果、アフガン戦争などに参戦して多くの死傷者を出している。対照的に日米安保条約の日本の場合には戦争放棄の憲法9条のお蔭で参戦義務を免れていた)



渡邉英徳‏ @hwtnv

73年前の今日。1945年9月27日,ダグラス・マッカーサー元帥が昭和天皇と会見。
当初,新聞等への写真掲載は不敬にあたるとされた。しかしGHQはそれを撤回させ,掲載を指示した。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。

『人間の命よりはるかに上位にあった天皇の写真(御真影)』
★注、
天皇の写真『御真影』は新聞掲載どころか国会など国権にかかわる重要施設にも一切掲げられていない。もちろん個人の神棚に飾ることも不敬とされていたほどの、命より大事な超国宝級のお宝なのである。
安倍晋三お友達のコスプレ右翼が森友学園の幼稚園児に教育勅語を暗唱させるとの御粗末極まる『勘違い』があったが、天皇家ゆかりの紀元節や天長節など特別大事な儀式の時だけ、正装の校長が白い手袋をして奉安殿から教育勅語をとり出し、うやうやしく読み上げるのを子供たちは直立不動、最敬礼で聞かなければならなかった。
現人神である天皇のお言葉である『教育勅語』は普段は『御真影』と共に奉安殿に厳重に保管され誰も見ることが出来ない畏れ多い代物なのである。(文部省学校防空指針では人命より重視され、空襲時に持ち出そうとして焼け死ぬ校長も相次いだ)



こちらが元の白黒写真。当時の米軍では歴史的に大事な場面では必ずカラーフィルムで記録されていたので、これは明らかに新聞用(マスコミの宣伝用)に撮影されていたことが分かる。(GHQ総司令部に呼び出された正装で直立不動のヒロヒトと、それとは対照的なラフな服装で後ろ手の長身のマッカーサーの図では、明らかな日米の主従関係が露骨に表れている)

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂『論理的に判断すれば日独伊三国同盟と日本降伏のヒロヒト会見の二つはbefore and after 一体不可分の関係だった』

1945年の歴史的なアメリカ占領軍のダグラス・マッカーサー元帥と日本の昭和天皇の会見の日付が偶然にもその5年前の日独伊三国同盟締結の記念日だった事実ですが、何故か日本のマスコミも歴史家も触れたく無い。ところが、たぶん、二つの日付がピッタリ一致していた不思議なこの事実こそが一番大事な意味を持っていると考えた方が辻褄が合う。
(★注、
単なる偶然の一致だったなら、今のようにマスコミや有識者の全員が必死で隠す必要が無いのである。日独伊三国同盟とその5年後のマッカーサーとヒロヒトとの会見の二者は必ず一つの例外も無く別々に論じられていた)


1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議

『主権在民の新憲法の実質的な第一条は戦争放棄の9条だった』

現行の日本国憲法の最初の1条から8条まで全部が政治的な意味を持たない天皇条項である不思議ですが、これは主権者が天皇一人だけの絶対天皇制の大日本帝国憲法の条文の修正案(条文の書き換え)だったからに過ぎない。 

何処の国の憲法でも一つの例外も無く1条には国家にとって最も大切な事が書いてあり、明治憲法では第1条の天皇主権、第2条の皇位継承、第4条の統治大権、第10条 の制大権、第1条の統帥大権、第13条の外交大権、第14条の戒厳大権など第一章が丸ごと全部が天皇条項だったのである。
1946(昭和21)年6月25日に帝国議会に上程された憲法改正案は、4か月にわたる両議院の審議を経て、10月6日、衆議院において最終的に可決された後、枢密院に再諮詢され、同月29日、可決、上奏裁可を経て、11月3日、「日本国憲法」として公布された。
現在の日本国憲法は、それ以前の大日本帝国憲法の改正案として提出され、正式な帝国議会の形式に従って公布され、 1947年(昭和22年)5月3日に施行されていた。(5月3日は憲法記念日として祝日になる)
日本国憲法が公布された11月3日(文化の日)は大日本帝国でも明治 天皇の誕生日の天長節として大事な祝日だったのである。(★注、これは偶然重なったのではなくて、天皇の権威を利用する目的でアメリカ占領軍が意識的に二つの日付が重なるようにしたと思われる)

『日本(松岡 洋右)は何の目的で日独伊三国同盟を結んだのか、』

東京裁判で文官のA級戦犯として訴追され靖国神社の軍神となった松岡 洋右ですが、アメリカへの留学経験がある日本で一番国際感覚が優れた外交官だったが、日本の国際連盟脱退から、日独伊三国同盟の締結と破滅への道をまっしぐらに突き進む。
(★注、1936年の日独伊防共協定か1937年の南京大虐殺かで死刑になった廣田弘毅や、富田メモ(2006年7月日本経済新聞)で松岡 洋右と共に名指しされた3国同盟時の外交官で無期刑で獄死した白鳥敏夫ら3人の特徴とは孫埼享のような外務省情報部だった。廣田も松岡も白鳥も第二次世界大戦の開戦には直接関係していない)
そもそも既に第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻(1939年9月)で英仏両国が宣戦布告して開戦していた。(アメリカは中立を表明)世界大戦はその後一時的に小休止した後に ドイツ軍機甲部隊の電撃戦でフランスが降伏、イギリス軍はダンケルクで大敗北を喫していたのである。(イギリス本国はゲーリングのドイツ空軍の猛爆に晒されていた)バトルオブブリテンで身動きが取れないイギリス以外の西ヨーロッパ全土はドイツに蹂躙されていた時期に結ばれたのが1940年の日独伊三国同盟である。目的はズバリ降伏したフランスの植民地仏領インドシナの火事場泥棒だった。ところがアメリカがハルノートで石油の全面禁輸などの経済封鎖で対抗する。
1941年6月22日,突如ソ連と締結した期限10年の独ソ不可侵条約を破棄したドイツ軍のバルバロッサ作戦が決行され、破竹の勢いのドイツ軍は半年後にはヨーロッパロシアの大部分を占領しレニングラードや首都モスクワを包囲する。これを見た日本軍はドイツ占領下のオランダの植民地のインドネシアの石油資源を目的にマレー半島に上陸、シンガポールのイギリス軍を敗走させている。
日本陸軍のマレー作戦の方が3時間も早いので、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃は何ともインチキくさい。(3時間もあれば十分に迎撃態勢や退避を完了して損害を小さくすることが出来るが、アメリカは開戦の大義名分を手に入れる目的でわざと大被害が出るようにしていた疑いがある)
ドイツが欧州で勝利している間は、日本(松岡 洋右)か結んだ日独伊三国同盟で勝ち馬に乗って、欧州列強の植民地を手に入れるとの汚い火事場泥棒が成功していたのである。
この『勝ち馬に乗る』作戦ですが第一次世界大戦で日本は大成功していた。しかし、第二次世界大戦でも同じ作戦だったが勝ち馬だと思ったドイツが負けたのですべてが水の泡。大博打に失敗して日本はスッテンテンになる。(そもそもの話が、バクチとはそのような代物だった)



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5 コメント

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天皇出頭記念日 (ローレライ)
2018-09-27 15:36:16
敗北の天皇出頭記念日が三国同盟記念日が同じ日である皮肉。
Unknown (フラビオ農山村)
2018-09-29 15:14:42
文官A級戦犯としては廣田弘毅もおりますよ。こちらは死刑
日本の一番暗くて深いi闇 (宗純)
2018-09-30 09:59:15
ご指摘の廣田弘毅ですが、なぜか、死刑となったA級戦犯としても、文官の首相としても歴史の闇に埋もれている。
歴史家もマスコミ有識者も同じで、廣田弘毅を語りたくないのですよ。死刑になった合理的な理由が不明なのです。
廣田も松岡も、東京裁判で裁かれた第二次世界大戦の開戦には直接関係していない。
それなら、1936年の日独伊防共協定か、1937年の南京大虐殺か、それとも陸海軍大臣の現役制度の復活程度で死刑になったことになる。
基本的に辻褄が合わないのですが、、だから歴史のタブーとしてマスコミや有識者が語りたくないのでしょう。

有名な昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言を記述した富田メモ(2006年7月日本経済新聞)元 宮内庁長官・富田朝彦の、
『・・・A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(原文 まま)までもが。・・・』
白鳥敏夫は日独伊三国同盟の成立に重要な役割を演じた外交官なのですが、東京裁判では終身刑になり獄死している。
白鳥敏夫 - Wikipediaによると、
『1920年(大正9年)に外務省内に情報部が設置されると、白鳥は情報部員となり、松岡洋右・広田弘毅の歴代部長の下で勤務した 』

訴追された3人の文官とは全員が外務省情報局と関連していた。
松岡洋右と広田弘毅と白鳥敏夫の特徴とはゾルゲのような大物スパイ(多分、二重スパイ)だったので口封じされたのでしょう。誰にも知られたくないアメリカの秘密を知り過ぎているのです。
Unknown (フラビオ農山村)
2018-09-30 17:48:26
「国民党政府は対手とせず」(第一次近衛声明)などと言われ面子を潰された蒋介石がどうしても死刑にしたかったのが近衛。しかし近衛が自殺してしまったので替わりにその時の外務大臣廣田を吊るした、という説を読んだことがあります。これもありそうな話です。
A級戦犯は当然 (古田)
2018-09-30 19:40:59
首相在任時代    軍部大臣現役武官制を復活
             日独防共協定
 
近衛内閣外相時代 日中戦争開始、拡大

客観的・外形的事実からするとA級戦犯は当然

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