己を吐露して、真摯に生きる/小島聡【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第112回 己を吐露して、真摯に生きる/小島聡



「彼はおしゃれで明るくて良識がある。それに、かしこくて折り目正しい。プロレスラーを世間的に認知させる上で、ジャンボ鶴田亡き後は、この小島聡である」

作家の内館牧子氏はかつて彼をこう評している。

「小島聡はどの軍団に入ったとしても、メンバーにならず他と交じらない。彼だけ独自のカラーが出している」

今は亡き、元週刊ファイト編集長・井上義啓氏は彼をこのように評したことがあった。

小島聡というプロレスラーを考えてみると実に奥深い。
良識派なのに、一匹狼のような雰囲気がある。
また二枚目な部分と三枚目な部分が同居してる。
プロレスは決してうまい方ではなかったが、いつの間にか熟成されていった小島プロレスが出来あがった。

新日本プロレスの黄金世代とも言えるのが第三世代だ。
金本浩二、天山広吉、小島聡、永田裕志、中西学、西村修、大谷晋二郎、ケンドー・カシン(石澤常光)、高岩竜一…。
日本プロレス界のあらゆる団体で王者となったスター選手達。
だが、東京スポーツ選出のプロレス大賞のMVPには、この小島しか選ばれていないのだ。

今回は現段階(2016年)では第三世代唯一のプロレス大賞MVP受賞者のレスラー人生を追う。

小島聡は1970年9月14日東京都江東区に生まれた。
子供の時から大のプロレスファンだった小島は高校時代に柔道を経験したものの、格闘技の明確なバックボーンがないままプロレスラーになりたいと思うようになる。
高校卒業後、ガス給湯器会社に就職する傍らで、アニマル浜口ジムでプロレスラーになるためのトレーニングと肉体つくりを開始した。
だが、同僚からは冷ややかな声を浴びた。

「お前、無理だよ。プロレスラーになれないよ」

それでも小島は諦めなかった。
この時期(1990年頃)は、格闘技実績のない元サラリーマンの小橋健太(現・建太)が全日本プロレスの新星として脚光を浴びていた。
小島は退路を断って会社を辞め、アニマル浜口ジムでのトレーニングに集中する。
1991年2月、新日本プロレスに入門した小島。
そこで小島を育てたのが馳浩と佐々木健介。
馳は小島にプロレスを合理的に教え、健介は逆に非合理的に苛め抜いた。

1991年7月16日の山本広吉(現・天山広吉)戦でデビューを果たす。
小島にとってプラスになったのは当時の新日本には切磋琢磨できる多くの若手がいたことである。
彼らとの対戦が小島を成長させた。

山本広吉&小島聡 VS 金本浩二&西村修

前座で組まれた若手同士のタッグマッチが、熱くてレベルが高いと評判を呼び専門誌でカラーページで取り上げられるほどだった。
このメンバーの中で先輩の金本は三代目タイガーマスクになるほどの運動神経と華を併せ持ち、おまけに喧嘩っ早さを売りにしていた。
西村は186cmの身長と柔軟性と甘いマスクで武藤敬司二世と呼ばれていた。
山本は若手でありながらプロレスは巧みで、新人の段階で己のキャラクターの活かし方を知っていた。
そして、小島は不器用だが、他のレスラーに負けない気合があった。
ちなみにエルボーはこの時期から多用し、「気合ウォリアー」という異名を持っていた。
だから、小島はよく気の強い金本に喧嘩を売り、二人は激しい攻防を繰り広げた。

ある日、小島は金本とシングルで対戦した。
小島は金本に気合でぶつかっていくも、金本の倍返しは想像以上にきつかった。
キレのある打撃、高さのあるローリング・ソバットで小島は口を切った。
最後はジャーマン・スープレックス・ホールドで敗れた。
新人時代の小島にとって、彼らの存在がなければ今日の小島はなかったかもしれない。

1992年にアマレス三銃士(中西学&永田裕志&石澤常光)、大谷晋二郎、高岩竜一が入門すると翌1993年には6年ぶりに若手最強を決めるリーグ戦「ヤングライオン杯」が開催された。そこでヤングライオン杯の決起集会が都内で行われた。
そこで、場を盛り上げたのが小島だった。
小島にはものまねという特技があった。
桂三枝(現・文枝)の「いらっしゃい!」というものまねは彼の鉄板ネタだった。
小島は、明るく楽しく激しい若手プロレスラーだった。

小島は1993年ではリーグ戦で敗退するも、1994年にはヤングライオン杯全勝優勝を果たした。
決勝戦ではアマレス三銃士の中西と激闘を繰り広げ、最後は新兵器レッグ&ネックロックでギブアップ勝ちを果たした。
試合後、小島は泣いていた。敗者の中西も小島の姿を見て、泣いていた。
プロレスラーになるまで何の実績もなかった男、不器用でプロレスがうまくなかった男が掴んだ始めての実績。
リング上では若手らによって小島の胴上げが行われ、控室では先輩レスラーも交じってのビールかけも始まった。
小島がいかに皆に愛されていたのかがよくわかる。

1994年12月、小島は海外武者修行に出る。「ジョー・ジョー・リー」というリングネームでヨーロッパやカナダを転戦した。
1996年1月4日の東京ドーム大会で小島は凱旋帰国試合を行う。183cm 115kgとパンプアップしての凱旋だった。
相手は1995年に凱旋し、新日本の風雲児として大暴れした山本広吉改め天山広吉。小島は天山の活躍を異国で耳にしていたのかもしれない。何を思ったのか、天山の得意技であるモンゴリアン・チョップ、ムーンサルト・プレスを使用。
だが、ファンの評価は厳しかった。

「これでは天山のコピーじゃないか」

試合に敗れ、凱旋試合も苦いものになった。
その後、1995年10月に海外遠征から帰国していた西村修とのコンビで活動していく。
だが、どこか空回りしていたような気がしてならない。
この頃の小島は、変にかっこつけてプロレスをしていたような気がする。
ヒールになりたいのか、何になりたいのかが本人自身も明確に見えていなかったではないだろうか。
ただ、この時期から当時はぶん殴りラリアットと形容されたキラりと光るラリアットを使用していた。

1996年6月、小島はIWGP挑戦者決定リーグ戦を制し、橋本真也が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦した。
ファン、マスコミ、関係者も含めて小島が勝つと考えている者は皆無だった。
だが、その状況が小島に火をつけた。

「絶対、見返してやる!」

それはプロレスラーになれないと言われた社会人時代に抱いた反骨心のようなものだった。
小島は全てを出すも、橋本の牙城は崩れなかった。

もがきながら、模索しながら、あがきながら新日本で闘っていた小島は1996年冬頃から得意のダイビング・エルボードロップに行く際にこんな声をあげるようになった。

「いっちゃうぞ!バカヤロー!」

当時はファンに悪態をついたアジテーションだと捉えられたが、今思えば、自分自身への鼓舞だったのかもしれない。
バカヤローはもがいている自分だったのかもしれない。

1996年10月より、海外遠征から帰国した中西学とのコンビ「ブル・パワーズ」が結成され、橋本真也&平田淳嗣や蝶野正洋&天山広吉といったIWGPタッグ王座に戴冠したチームから勝利を収めていった。
そして、1997年5月3日大阪ドーム大会で長州力&佐々木健介を破り、IWGPタッグ王座を奪取した。
実績はできたが、まだ小島聡のプロレス作りはまだまだ試行錯誤していた。

「人気先行で試合内容はまだまだ」

それが当時の小島の現状だった。

小島にとって転機となったのは1998年10月のこと。
天才・武藤敬司に誘われて、人気ユニットnWo JAPAN入りを果たしたのだ。
武藤にとって小島は可愛がっていた後輩で、自分と同じく陽の存在だった。
思えばかつて武藤がメイン司会を務めていたラジオ番組のゲストとして小島はよく呼ばれていた。

小島がnWo JAPAN入りしたことによって、紆余曲折の末、天山とコンビを結成することになる。
あの名タッグチーム「天コジ」の誕生である。

1999年1月4日東京ドーム大会で天コジは"天越同盟"天龍源一郎&越中詩郎を破り、IWGPタッグ王座を獲得する。
同世代の中西学&永田裕志とは何度もタッグ王座を賭けた激闘を繰り広げていくことなる。

小島にとって武藤と過ごした時間は自分自身のプロレスを形成していく中で重要なファクターとなった。
1999年7月には武藤が保持していたIWGP王座に挑戦したこともあった。

武藤と過ごした日々が生きてきたのは奇しくも武藤が新日本を離れた時期に現れた。
2000年3月、小島は佐々木健介が保持するIWGP王座に挑戦することになった。
小島は武藤を除いたnWo JAPANの残党と共に、蝶野正洋率いるユニットTEAM2000入りしたばかりだった。
これまでの小島はヤングライオンの延長のようなガムシャラに前に出る猪突猛進のワンパターンなプロレスが多かったが、この日は違った。
健介の足に的を絞り、徹底的に足殺しを行い、得意のラリアットも足に当てるなどして応用した。
武藤が得意にしていたドラゴンスクリューからの足四の字固めまで披露した。
ようやく武藤と過ごした日々をプロレスに生かすことができるようになった。
試合には敗れたものの、シングルプレーヤー小島の評価は上がった。

小島のプロレスがよくやく面白く見えるようになった。
もう「天山のコピー」と揶揄する者はいない。
逆に天山だけでなく対戦相手のものまねをして開き直った。
喜怒哀楽をいい形で出すことができるようになった。

もしかしたら心に若干のゆとりがもてるようになったのかもしれない。
だからガムシャラ一直線なファイトだけが彼の武器ではなくなっていた。
かっこつけることもある意味、小島の特徴として昇華させていった。

だが、小島は2002年1月をもって新日本を退団し、武藤敬司率いる全日本プロレスに移籍することになった。
格闘技路線に展化していた当時の新日本に疑問があったからだ。
小島の新日本ラストマッチは天コジとしてのタッグマッチ。
ファンも関係者も涙に包まれた感動的なラストマッチ。

天山と小島は最後までプロとして試合を務め上げて勝利を収めた。
だが、試合後二人は号泣した。
決して仲違いしたわけではない。
辞めなくてもいいなら辞めたくない。
それでも去らないといけないという現実。
天コジの歴史は一旦、袂を分かつことになった。

全日本に入団した小島は王道プロレスを吸収することで器量と技量に厚みが出てきた。
ぶん殴りラリアットと評された小島のラリアットは元祖ラリアットのスタン・ハンセンからコツを伝授され、ウエスタン・ラリアットと呼ばれるようになった。
三冠戦やチャンピオン・カーニバルを経験することで、どんな対戦相手でも対応できるようになった。
マスクマンやペイントレスラーに変身することでレスラーとしての幅を示した。
この選択は彼のレスラー人生にとって大きなプラスとなった。

2003年1月4日、新日本・東京ドーム大会で天コジは再結成され、一夜限りの復活を果たす。
これは天コジストーリーにはまだ続きがあるという暗示だった。

2003年のチャンピオン・カーニバルを初優勝した、小島は同年のゼロワン火祭り優勝も果たす。

そんな小島にとって貴重な体験となったのは2004年7月18日、両国国技館大会での三沢光晴戦だった。
当時の三沢は全日本を離れ、ノアを設立したプロレス界の盟主。
小島にとっては触れたことのない、テレビの画面の中で躍動するレジェンドレスラー。

小島はこの試合実現に向けて行動を起こす。
2004年7月10日、ノア初の東京ドーム大会でタッグながら三沢と武藤 夢の対決が実現した。
その試合後、三沢の控室には小島がいた。

「いきなり失礼します。全日本プロレスの小島と申します。今度、ウチの両国大会で僕と戦って下さい。全日本のリングで!戦って下さい!」

小島の言葉に三沢は握手で応じた。
三沢は小島に好感を持ったという。恐らく小島のその言葉の内にある心を読んだのかもしれない。

「自分は『てめー、俺とやらせろ!』という手段のやり方には疑問を持っているから、ああいう形で真正面からお願いされたので嬉しかった」

このようなニュアンスのコメントを三沢は語っている。
小島は三沢のフルコースを味わいつくし、敗れた。
特に三沢のエルボーには衝撃を受けた。

「今まで食らってきたエルボーとは違う。こんなのをあと数発食らうとKOされてしまう」

ちなみにあの第三世代で三沢とシングルマッチで対戦したのは小島だけである。

2005年2月16日、小島は川田利明を破り、悲願の三冠王座を獲得すると、その4日後に新日本プロレスの両国国技館大会でIWGP王者との史上初のダブルタイトルマッチを行うことになった。相手は盟友・天山だった。
試合は思わぬ方向に動いていく。
長期戦となっていくなかで互いに新日本と全日本という看板をかけた重い攻防が続く中で、天山が脱水症状に陥って動けなくなるというアクシデントが発生する。
もし、新日本時代の小島なら慌てたり、何も出来なかったかもしれない。
だが、この時の小島は違ったダウンしている天山にエルボードロップを落としたり、場内にアピールしたりと冷静に対処していたのだ。
これが小島が過ごしてきた全日本での日々が生きた瞬間だった。
試合運びも天山とは違い、長期戦に対応できるようにペースを保っていた。
試合は59分45秒、小島のKO勝ちという裁定が下った。
小島はプロレス界初の新日本&全日本のシングル王座独占という快挙を成し遂げた。

5月の天山とのリターンマッチでIWGP王座を手放すものの、三冠王座を防衛し続けたことが評価され2005年プロレス大賞MVPを受賞した小島。
アニマル浜口ジム出身者初のプロレス大賞MVPとなった。
劣等生だった男がプロレス界の頂点に立ったのだ。

その後、小島は2007年に極悪ユニットVOODOO-MURDERSへ加入し、レスラーとしての経験値を上げた。
ただ根が明るくていい奴を隠せない小島とVOODOO-MURDERSでは水と油。
やはり、このヒール転向には無理があった。

2008年、新日本で孤立していた天山広吉を救いにやって来たのは当時、VOODOO-MURDERSにいた小島だった。
これをきっけけに小島はVOODOO-MURDERSを脱退し、天コジは再結成する。
G1タッグリーグ戦&世界最強タッグリーグ戦を同時に制覇する快挙を成し遂げた。

2010年5月、小島は全日本を去った。
そして、小島は「フリー」として古巣・新日本にカムバックする。
この選択には波紋を呼んだ。
一部からは「逃げた」と言われた。

8月の「G1CLIMAX」で新日本所属外選手として初の優勝を果たす。
試合後、小島はこのようなコメントを残した。

「はっきり言って、プロレスおもしれぇよ! いろんなことがあるから さ!今日の試合もそうだけど、そこに至るまでの過程だったり、今日の試合もそうだけど。おたがいの選手の背景だとか、いろんなことがあるからおもしろく てしょうがねぇんだ。いろんな思いをしょってリングに 立って、あれだけのお客さんの前で試合して、これだけのマスコミの人に囲まれて。いま俺はプロレスラーとして生きていて、生かされていて、こんなにスゲー ことはねぇよ!」

そして、10月11日、真壁刀義を破り、二度目のIWGP王座を戴冠した。
その後、小島は2011年1月4日の棚橋に敗れ王座を転落すると、同年9月に新日本プロレス再入団を果たす。
今の新日本は、あの格闘技路線に展化していた新日本ではない。
新生・新日本プロレスに生まれ変わっていた。

2011年12月14日のは小島の20周年記念興業が行われた。
試合後、小島はファンにこう語りかけた。

「今日は、20周年記念大会にお越しいただきまして、本当にありがとうございました! まさか、自分のような人間が、20年間もプロレスラーでいることができるとは、正直いって思いませんでした。プロレスは1人ではできません。私にはたくさんの選手、そして社員の人、スタッフの方、関係者の方々、そして、今日ここにいる皆様を始めとしたプロレスファンの方々がいたからこそ、20年やってこれたと思っています! 正直、体はボロボロですが、まだ自分にはやりたいことがいっぱいあります。プロレスラーとして、まだまだ生きていきたいと思っています!これからも少しでも長くできるように、一生懸命訓練して、練習して、たくさんの仲間と共に、プロレスラーとして生きていきたいと思っています! 今日は本当に、どうもありがとうございました!!」

新日本に再入団した小島は天山との抗争を繰り広げ、コンビを復活。
2012年1月4日にはジャイアント・バーナード&カール・アンダーソンを破り、IWGPタッグ王座を奪回した。
2014年1月4日には、ロブ・コンウェイを破り、NWA世界ヘビー級王者となった。

小島はベテランとなった第三世代の中で、今を生きるために、コンディションを保ちながら、新日本プロレスという戦場で闘い続けている。

最後に今回、小島を取り上げようと決意したきっかけとなったあるエピソードを紹介しよう。
小島はブログやTwitterといったSNSを駆使し、己の想いをぶつけている。
そんなある日、小島に中学生からある質問ツイートがあった。

「プロレスはやらせじゃないですよね?」

その中学生は決して悪意のあるツイートではなく、学校の先生が「プロレスはやらせだ」と言うので確認しようとした純粋な想いからだった。

小島はその想いに正面から応えた。

「プロレスが、ヤラセかヤラセじゃないか?なんて愚問だと思う。痛くないのに痛いふりをして油断させたり、痛いのに痛くないふりをして意地を張る時もある。相手選手、お客さんとの駆け引きも凄く重要だし、ただ単に勝敗を競っいてる訳じゃないから。ただ、どう言われても、命だけは張ってます」

「残念だけど、初めからヤラセという人は、選手が流血しようが、大怪我しようが…極論、亡くなってしまったとしても『ヤラセなのに大変だったね』という言葉を出すでしょう。それは、本当に悲しくて悔しい事だけど…その何十倍、何百倍もの人がプロレスで感動してくれていると思えば、自分は頑張れます」

正直な話、このような質問は無視しようも思えば無視できたはずだ。
恐らく、多くのプロレスラーなら無視したかもしれない。
だけど、小島は無視しなかった。
ここに小島聡というプロレスラーの神髄がある。

そこで小島のブログやTwitterを見ていると、これは彼の人間性とプロレススタイルに通ずると感じたのだ。
そう、彼はカッコいい自分もカッコ悪い自分も全てさらけ出しているのだ。
ちょっとした自慢も、失敗談も、ジョークも、あらゆることを吐露することをファンへの誠意だと彼は自然と感じているのではないだろうか。

リングを下りれば小島はよきパパだ。

「プロレスラーって不規則な仕事。多忙の時もあれば、練習を除けば家にもいられる。ただダラッとしていたいけど、妻が一生懸命、家事をやっていると見ているわけにもいかないし、申し訳ない。3歳は一番良い時でもあるし、手もかかる時だから。娘と散歩もするし、お風呂当番は自分。最近、父親がプロレスラーであること分かっているみたい。『試合に行くの?』とか言う。DVDもみてますし。娘に良い影響があれば何か伝えたいと思う」

小島聡のレスラー人生は波乱万丈だ。
新人時代の彼には気合しかなかった。
凱旋帰国直後は天山広吉のコピーと呼ばれるほど、天山を意識するあまりにもがき続けた。
武藤敬司との日々で磨いたプロレス頭。
天コジで培ったタッグ屋としてのスキル。
全日本移籍後に学んだ王道プロレス。
新日本再入団後は己がどう生き抜くかを考えて行動してきた。

小島聡という生き方の凄味に私はようやく気が付いた。
ここまで、自分の成長過程と人間性を吐露してきた選手はいないと。
そして、そこに小島には『他人の不快感を与えない』という一種の才能がその真摯な生き方のスパイスとなっているのだ。

ちなみに冒頭に紹介した作家の内館牧子氏は小島をこのように評したこともある。

「おそらく彼が目指しているのは、大人の男としてのカッコよさではないか。礼儀とか、他人にイヤな感じを与えないとか、紳士が守るべきルールだ。それが『常識的』だの『明るい』だのという言葉で簡単に片付けられるのだろうが、これはかしこくなければできないことである」

小島聡は今年(2016年)デビュー25周年を迎える。
彼は今日もプロレスラーとして、一人の大人として己を吐露して、真摯に生きる。