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「外国人地方選挙権は違憲」☆長尾一紘新説の批判と称賛

2010年01月30日 21時35分14秒 | 日々感じたこととか


民主党の外国人地方選挙権付与法案は違憲であると「外国人参政権の理論的支柱が自説を撤回」したとの報道が全国を駆け巡りました。以下、産経新聞記事(2010年1月.28日)の転記。


「法案は明らかに違憲」 外国人参政権の理論的支柱が自説を撤回
外国人に地方参政権を付与できるとする参政権の「部分的許容説」を日本で最初に紹介した長尾一紘(かずひろ)中央大教授(憲法学)は28日までに産経新聞の取材に応じ、政府が今国会提出を検討中の参政権(選挙権)付与法案について「明らかに違憲。鳩山由紀夫首相が提唱する東アジア共同体、地域主権とパックの国家解体に向かう危険な法案だ」と語った。長尾氏は法案推進派の理論的支柱であり、その研究は「参政権付与を講ずる措置は憲法上禁止されていない」とした平成7年の最高裁判決の「傍論」部分にも影響を与えた。だが、長尾氏は現在、反省しているという。(以上、引用終了)



外国人地方選挙権断乎阻止、特別永住権制度即時廃止、そして、現行憲法秩序と日本国に忠誠を誓い、かつ、皇室・日の丸・君が代・靖国の英霊に象徴される日本の伝統と文化と歴史を尊重する誓約をマストにする帰化要件の厳格化(というか世界標準化)を求める、我々、保守改革派にとってこのニュースは正にgood news(福音)ではあるでしょう。けれども、私は、この長尾新説には些か疑義を感じないわけではない。

而して、リベラル派からの反撃に備えるべく、「外国人地方選挙権反対」の旗幟を鮮明にされた長尾さんの主張を敢えて俎上に載せることにしました。畢竟、憲法無効論の如き誰も相手にしない戯言ならば実害は皆無だけれど、もし、長尾さんや百地さんというこちら側の論客がリベラル派との論争で「敗退」少なくとも「勝敗不明」という印象を世間に与えることになればその実害は甚大だと危惧したからです。尚、このイシューに関する私の憲法論に関しては下記拙稿を参照いただければと思います。ちなみに、第二の記事が第一の記事のダイジェストになっています。

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/014ac5cbcc6730be9219f9eece65c1da



■憲法問題としての外国人地方選挙権の構図
私は政治的主張としての長尾新説には「鐚一文」「太平洋にお猪口一杯」も異論はありません。あくまでも、本稿で俎上に載せるのは憲法論としての長尾新説の妥当性。而して、元来、外国人地方選挙権はどのような論理的構図において憲法学の課題となるのか。まずこの点を整理しておきます。

蓋し、憲法問題としての外国人地方選挙権が孕む論点は以下の3点ではないでしょうか。

(甲)外国人に参政権は認められるか

(乙)もし、(甲)で「肯」とする場合、外国人に認められる参政権には国と地方の選挙権・被選挙権が含まれるのか

(丙)外国人に選挙権を認めることは日本国民の参政権を(相対的に弱める点で)憲法上許されないものではなのか


現行憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を紐解くまでもなく、国民主権の原理を現行憲法が基盤とする実定的な価値の一つであることを否定しない限り、(甲)は論理的に否定されると思います。つまり、外国人地方選挙権は外国人の基本的人権ではあり得ない。而して、この認識は、外国人の地方選挙権が争われた1995年及び2000年の最高裁判決、そして、東京都管理職選考試験受験資格の是非が争点になった最高裁大法廷判決(平成7年2月28日;平成12年4月25日;平成17年1月26日)において数次に亘り最高裁判所が確認しているものなのです。

他方、外国人が実質的に日本の政治過程に影響を及ぼすことは論理的にも技術的にも誰も止めることはできない(例えば、昨年9月に日本に帰化されるまで金美齢女史の行動が日本の政治と無関係だったとは言えないだろうし、実際、我々保守改革派の少なからずは女史に感化されたのでしょうから)。けれども、それは社会学的に測定される<影響>であり、また、「参政権」とは無関係ではないにせよ、一応、「参政権」とは峻別されるべき「表現の自由」「思想良心の自由」の守備範囲の事柄であり、蓋し、外国人の政治的影響力を完全に払拭することができないことと、外国人にも基本的人権として参政権が保障されていることは憲法上は位相を異にすると言うべきだと思います。

では、外国人に参政権が認められない以上、一切の地方選挙権もまた外国人に対して認められないのか。(乙)の前提、すなわち、「もし、(甲)で「肯」とする場合」が否定される以上結論はシンプル。「認められない」、と。但し、ここに「国民主権」というビックワードを根拠に一切の外国人地方選挙権を否定する単純な「外国人地方選挙権違憲論」の盲点が隠されている。

蓋し、(a)地方の選挙権といえども確かに憲法上の権利として外国人に選挙権が認められることはないが、(b)立法政策的な合目的性があれば、謂わば「反射的利益」として、かつ、(c)参政権ではない(主権者たる国民の意思のみによって形成されるべき国家の意思とは、ある限度内にせよ疎遠な)地方選挙権なるものが法技術的に設計可能ならば、(d)そのような地方選挙権を外国人に認めることは(丙)の懸念を払拭するものであり違憲とは言えない、と。しかし、(e)現在の我が国の国と地方の関係を鑑みるに、参政権ではない地方選挙権なるものが法技術的に設計可能とは言えない現状では、まして、そのマニフェストで「地方主権」の確立を掲げている民主党政権の地方自治政策の延長線上での外国人地方選挙権は完全に違憲と言わざるを得ない。

畢竟、「国民主権」を根拠に外国人地方選挙権を否定する違憲論と結論は同じになりますが、(a)から一直線に(e)の結論に至る違憲論と(b)(c)(d)のプロセスを踏む点で私見は異なる。而して、詰め将棋に喩えれば「三手詰め」ではなく「9手詰め」の問題としてこの外国人地方選挙権を捉える私見の構えは、「国民主権の概念とその妥当根拠は如何」「国民主権に反するとしても民主主義を国民主権よりもより上位の価値原理として考える場合の結論は如何」そして「国民と国家と憲法の概念は如何」等々のリベラル派からの予想される反撃に対処するためには優れていると思います。





■立法事実と外国人地方選挙権
前項で展開した私見を前提に長尾新説を以下検討します。上に引用した産経新聞記事の中で長尾さんは、「許容説→禁止説」に転向された法理論上の根拠を「理由は二つある」としてこう述べておられる。


1つは状況の変化。参政権問題の大きな要因のひとつである、在日外国人をめぐる環境がここ10年で大きく変わった。韓国は在外選挙権法案を成立させ、在日韓国人の本国での選挙権を保証した。また、日本に住民登録したままで韓国に居住申告すれば、韓国での投票権が持てる国内居住申告制度も設けた。現実の経験的要素が法解釈に影響を与える『立法事実の原則』からすると、在日韓国人をめぐる状況を根拠とすることは不合理になり、これを続行することは誤りだと判断した

-もうひとつは

理論的反省だ。法律の文献だけで問題を考えたのは失敗だった。政治思想史からすれば、近代国家、民主主義における国民とは国家を守っていく精神、愛国心を持つものだ。選挙で問題になるのは国家に対する忠誠としての愛国心だが、外国人にはこれがない。日本国憲法15条1項は参政権を国民固有の権利としており、この点でも違憲だ。(以上、引用終了)。


「憲法15条1項は参政権を国民固有の権利としており、この点でも違憲だ」という直線的な違憲論が採用できないことは既に述べました。更に、長野新説の「立法事実」にも私は同意することはできない。

蓋し、「立法事実」とは訴訟で解決されるべき紛争を構成する具体的な事実、所謂「司法事実」と対になる概念で、裁判所が憲法訴訟において適用する法規の、その立法目的の前提となる事実です(国会が当該の法規を制定した際に前提としたであろう事実)。例えば、「薬局や銭湯があまりにも近い距離にあれば、競争が激化して、双方の経営体力を削ぎ、結局、その皺寄せは公衆の健康と地域の衛生状態の悪化に至る」という事態を想定して、公衆の健康と地域の衛生状態の確保という目的のために「薬局や銭湯はある程度以上離れていなければならず、それを満たさない新規の開店を規制する立法」がなされたとすれば、最初に想定された「薬局や銭湯があまりにも近い距離にあれば・・・その皺寄せは公衆の健康と地域の衛生状態の悪化に至る」という事実を「立法事実」と呼ぶのです。

ポイントは、その法規が制限する権利のカテゴリーの違いによって、裁判所が審査する立法事実の合理性や現実性の度合が異なること。例えば、精神的自由と経済的自由とでは許される権利制限の度合に違いを認める所謂「二重の基準論」を採用する通説(あるいは、民主主義のプロセスに直接関係することに、経済的自由に比べて精神的自由、就中、政治的な表現の自由がより手厚く保護される根拠を見る松井茂記さん等の通説の一派)は、積極的経済的な自由の規制(経済財政政策のための一般的な規制)に関しては、その規制法規の合憲性が推定され、すなわち、立法事実の存在と合理性も推定されるけれど、それに対して、その表現の内容面に着目した表現の自由の制限は、原則、違憲性が推定され、すなわち、立法事実の不存在と非合理性も推定されると考えているようです。

而して、問題は、私見によれば、外国人の権利の制限ではなく日本国民の参政権の制限である外国人地方選挙権の違憲性を「在日韓国人の韓国における選挙権が認められた」ことを内容とする立法事実から演繹することは筋違いではないかということです。蓋し、このイシューに関して議論されるべき立法事実は「外国人に対する地方選挙権付与が、どの程度日本国民の政治参加と政治的意思形成を歪めるか」ということに尽きるのではないか、と。そう私は考えています。

しかし、宇宙人はもとより「世界市民-地球市民」なる政治的実態が存在しない現在、荒れ狂うグローバル化の波濤から国民を護るものとしての「国民国家-主権国家」の意義がいよいよ高まっている現在、「近代国家、民主主義における国民とは国家を守っていく精神、愛国心を持つものだ。選挙で問題になるのは国家に対する忠誠としての愛国心だが、外国人にはこれがない」という長尾新説の認識は極めて妥当なものであり、この認識を基盤とする「国家-国民」「国民主権-民主主義」の概念を槓桿として、現在の国と地方の関係のあり方の現状から外国人地方選挙権の違憲性を導くことは正しい。長尾新説の憲法論としての価値はこの点にあり、そして、この「愛国心」の価値の顕揚は称賛に値する。と、そう私は考えます。


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1 コメント

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Unknown (ー)
2010-01-30 21:49:48
SAPIO (サピオ) 2/17号の『ゴーマニズム宣言』で
「外国人参政権」の恐ろしさが、詳しく描かれています。

漫画なので、一番インパクトがあってわかりやすいと思います。

これが少しでも広まれば、と思っているのですが…。

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