北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

2015年の読書から。畑村洋太郎「技術大国幻想の終わり これが日本の生きる道」(講談社現代新書)

2016年02月26日 23時05分44秒 | つれづれ読書録
 昨年2015年は、読書もぱっとせず、読んだ本は前年のおよそ半分の50冊あまりで終わってしまった。

 印象に残っているのは

須田桃子「捏造の科学者 STAP細胞事件」(文芸春秋)
朴 裕河「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」(朝日新聞出版)
チャペック「園芸家の一年」(平凡社ライブラリー)
荒巻義雄「白き日旅立てば不死」(彩流社 定本荒巻義雄メタSF全集)
柄谷行人「世界史の構造」(岩波現代文庫)
森本あんり「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体」(新潮選書)
山本 弘「ニセ科学を10倍楽しむ本」(ちくま文庫)
アンナ・カヴァン「氷」(ちくま文庫)
角田光代「八日目の蝉」(中公文庫)
    「ツリーハウス」(文春文庫)
笠原十九司「海軍の日中戦争」(平凡社)
大岡昇平「野火」(新潮文庫)
坂本龍彦「「言論の死」まで」(岩波書店 同時代ライブラリー)
ガルシアマルケス「エレンディラ」(ちくま文庫)

といったところだろうか。

 この「技術大国幻想の終わり」は、「失敗学」の提唱者として知られる畑村洋太郎東大教授の新書版で、内容は「これからの日本への政策提言」である。
 ジャンル的には、よくある一冊で、末永く読まれる古典というよりは、2015年の時点で意味のある本だというほうが適切だろうと思う。

 ただ、個人的に、どうしても忘れがたい箇所が二つあったので、ここで紹介しておきたいのだ。

 世界を見て回ってわかったのは、経済成長著しい新興国は、日本以上に自分の頭で考えて努力してきたということです。一方その間、私たち日本人は、自らを「技術大国」と位置づけて、その上にずっとあぐらをかき続けてきたのではないか、そして自分の玉たで考えて努力するということを忘れていたのではないか。

(中略)

 私は2011年の東日本大震災による福島第1原発の事故後、政府の事故調査委員会の委員長を務めました。その活動の中で驚いたのは、原子炉の中の状況を示す数値が解析プログラムによってそれぞれ異なるので、事故当時なにが起こっていたかをきちんと把握できなかったことです。ちなみにこうした解析プログラムはすべてアメリカが開発したもので、日本が自前で開発したものは一つもありませんでした。

(中略)

 それはつまり、日本の原発は、自分の頭の中に事故のモデルすら持っていない人たちによって運営されていたことを意味します。

 実は、日本が自分たちより下に見ている韓国は、自前で開発した解析プログラムを持っています。

(中略)

 中国の原発にも、やはり自前で開発した解析プログラムがあります。 (12、13ページ)


 この畑村さんの指摘は重要だと思う。
 日本は奇跡的な高度経済成長の後、その成果におごり、停滞して、頭を使わなくなってしまったのではないか。
 畑村さんの例示は具体的で、かつショックだ。

 もうひとつ。46ページから。

 傾向としては、単純労働に就いている人と知識労働に就いている人とに二分されて、中間がなくなっています。前者の人の給料はどんどん下がって、以前でしたら300万円~400万円の年収が確保されていたのが、いまではだいたい200万円ほどしか得られなくなっています。

(中略)

 その一方で、経営や企画が本当にできる人は、いまでも高い価値があると認められています。(中略)大ざっぱに見ると、経営ができる人で年収3000万円、本当の企画ができる人で年収1000万円程度という感じでしょうか。

(中略)

 実際に海外を回ってみて感じるのは、世界規模で労働賃金の平準化が進んでいることです。たとえば中国を見ると、(中略)最近では、給与水準が上がって日本とあまり変わらない状況になっています。

(中略)

 このように生産や現場管理の仕事の価値が世界規模で年収200万円程度のラインで標準化されている一方で、経営ができる人の給与が下がることはありません。これはいままでなかったものをゼロからつくるクリエイティブな仕事をする人も同じです。こうした人たちは、海外でも高く評価されているので、3000万円から安くても600万円程度を稼ぐことができるようです。


 これもいささかショックキングな指摘であった。
 1980~90年代の日本では「一億総中流」といわれ、たいした勉学をしなくても高校を卒業して普通に就職すれば、人並みの給与が得られて、家を買って家族を持てることになっていた。
 しかし、グローバリゼーションが進むと、労働力も流動化していく。この畑村さんの理論でいくと、国民経済の枠の中で、政治がどんな施策をとろうとも、かつてのような中間層の復興は望めないという結論になってしまう。

 これは非常に悲観的な話ではないだろうか。
 わたしたちはいったいどうすればいいのだろう。

(ここで「市場経済の行き詰まり」みたいな話にもっていくと、議論としては手っ取り早いのだが、10年・20年の先行きをどうするという文脈ではさほど意味がないのである)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。