ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

機動警察パトレイバー2:押井守が生み出した「テロ事件」

2005年07月18日 | 映画♪
誤解を恐れずに言えば、この作品がなければ「地下鉄サリン事件」は起こらなかったであろう。マスメディアなどはその影響力を過小評価しているが、既に日本のアニメやハリウッド映画の想像力は現実を先行している。9.11の方法論がハリウッド映画によってインスパイアされたように、1993年に発表された押井守のこの作品は予言に満ちた、否、現実の先を行った作品だったと言える。1992年PKO法案が制定され国内がイラク派兵の是非についてもめていた時、誰が国内でのテロ活動や自衛隊の活躍を求める必要性を感じていただろうか。押井守が描いた社会派アニメの傑作。

1999年、東南アジア某国においてPKO活動に参加した自衛隊のレイバー小隊は、武器使用が認められないまま敵襲を受け壊滅した――。それから数年後、突如、自衛隊の戦闘機らしきものが横浜ベイブリッジを爆破する。果たして自衛隊によるテロ活動なのか?!そんなある日、特車二課の南雲課長代理と後藤隊長の下に陸自の情報部員・荒川と名乗る男が現れる。荒川は今回の事件の首謀者をかってPKO活動に参加した柘植だとして、警察の現場レベルでの協力を要請する。柘植はかって南雲の元恋人だった。警察と自衛隊の権力闘争と駆け引きが渦巻く中、柘植の一員と思われる戦闘機が東京の街を襲い始めるのだった…




「機動警察パトレイバー」となっていはいるが、そこには漫画やテレビシリーズの「パトレイバー」の世界からは程遠い。レイバーの登場シーンも少ないし、話を引っ張っていくのも、原作の主役 泉野明、篠原遊馬ではなく、後藤隊長であり、南雲しのぶであったりする。しかし/だからこそ、ここで描かれた世界観は通常のアニメの枠を大きく超えたものとなる。例えば荒川の車中で、かっての恋人 柘植に関するファイルを手にする南雲しのぶの表情やその変化を見やる後藤の表情、ここにはセリフとあからさまな感情表現に頼っていたアニメの枠を越えたドラマ性を感じ取れるものである。

あるい押井守お得意の後藤と荒川の長ゼリシーン。川辺から眺められる取り残された都市と再生される都市の断片とともに反芻される会話「俺達が守るべき平和。だがこの国のこの街の平和とは一体何だ?かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血塗れの経済的繁栄。それが俺達の平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な代価を余所の国の戦争で支払い、その事から目を逸らし続ける不正義の平和・・・」ここでやり取りされる哲学めいた会話はおそらく現在の国際政治構造の一面を突いている。

本来、「平和」とはどのような状態であろうか。もちろん「戦争」がないという状態を「平和」と呼ぶことは可能だ。しかしこうした「消極的平和」とはこの後藤と荒川の会話にもあるように、世界が構造的に生み出しうる「暴力」を隠蔽し、外部化し、他所の国に転移しただけに過ぎない。だからこそ例えば「貧困」や「経済格差」などを含めた「構造的な暴力」を解消することが求められる(「積極的平和」)。しかし現実はそう優しくない。

もてる国はその地位を保つために物理的な暴力装置(「軍隊」)や自由主義経済というルールを利用することで経済格差を構造化し、「構造的な暴力」を肯定する。特にこの経済的な問題については、搾取/被搾取という関係ではなく「現地化」という形をとりつつあること、第三世界の国々の経済発展が「自然破壊」という問題をおざなりにしがちであることなどより問題を複雑化している。

しかしこと日本においての問題は、そうしたことに対する意識の低さにあるのだろう。「正当な代価を余所の国の戦争(「冷戦構造」「構造的暴力」あるいは「アメリカ軍」そのもの)で支払い、その事から目を逸らし続ける不正義の平和」ということに対してどれだけの意識が今の日本にあるのだろうか。こうした危機意識の低さに対して、柘植は1つの揺さぶりをかける。それが「戦争状態の演出」だ。

この映画の凄いところは、1993年の時点で「日本国内でテロが起こる」という発想と「非常事態の治安を守るために国内で軍隊が活動する可能性がある」ということを示したところにあるのだろう。日本国内でのテロについては、事実、1995年3月20日にオウム真理教が「地下鉄サリン事件」を起こすことになる。丸ノ内線、日比谷線、千代田線の地下鉄車内で化学兵器にも使われる神経ガス サリンが散布されるというこの残虐なテロ事件であるが、この「都市にガスを撒く」という発想はこの映画から来たのではないか。オウム幹部の発言にもあった、戦争状態を作り出すということ。この映画を見ていた多くの人はそう思っただろう。

また「国内で軍隊が活動する可能性」については、それまで国内で自衛隊の活動を想定していなかったこともあって、阪神・淡路大震災が発生した時に知事の要請がないと自衛隊が出動できないという問題を露呈することとなった。当時はPKO議論が花盛りし頃であり、外国が攻めてきたらどう先守防衛するのかといった議論が中心であり、国内での活動がどうといったレベルでの議論ではなかった。そういったに意味では押井守が突きつけたこの2つの課題は、まさしく時代を先取りするような形となった。それだけでこの物語の凄さはある。

そうした直接的なメッセージとは別に、この映画を見ていると「鳥」がやたらと描かれていることに気付く。実はここに押井守のメッセージ、「鳥瞰」的な視点から世界を見ることの大切さがこめられているのではないだろうか。

今回の物語は当然、後藤と南雲の活躍を描いた作品なわけだが、「戦争はとっくに始まってるさ。問題なのは如何にけりをつけるか」という言葉が示すとおり、常に柘植の後手後手に回りながら柘植を追い詰めていくこととなる。しかし、実際は先の長ゼリが示すとおり、柘植を逮捕したところで実際起こっているテロ事件については解決したとしても、構造的な暴力が片付いたわけではない。あるいは、「其々の持ち場で何かしなくちゃ、何かしよう、その結果が状況をここまで悪化させた。そうは思わないか」という言葉が示すように、それぞれの人間が部分最適的に、あるいは自己中心的に最適化を求めた挙句、全体としては「警察」と「自衛隊」という2つの暴力装置の権力争いにしかならなかったという事実。こうしたものが示すのは、それぞれの役割や立場、視点を超えて「鳥瞰」すれば、違う事実が見えてくる、ということだ。

これは何もこの映画に限られたことではない。個人と組織の視点の差異、あるいは組織とより上位レイヤーでの視点の差異、あるいは組織を超えた社会という視点、国を超えたよりグローバルな視点・・・部分最適が全体最適ではなく、では自分は振舞う行動とはどの視点での最適化が求められるのか/求めるのか。こうしたことを暗に言わんがために「鳥」が描かれたのだろう。

最後、指を絡めながら柘植を逮捕する南雲とそれを見送る後藤。アニメとはいえない大人の恋愛が描かれています。


【評価】
総合:★★★★★
物語の深み:★★★★★
ロボット度:★☆☆☆☆

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