詭弁

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詭弁(詭辯、きべん、: σοφιστική)とは、主に説得を目的として、命題証明の際に実際には誤っている論理の展開が用いられている「推論」である。誤っていることを正しいと思わせるように仕向けた議論。奇弁危弁とも。意図的ではない「誤謬」とは異なる概念である。

意味[編集]

日本語で日常的に使われる「詭弁」とは、「故意に行われる虚偽の議論」[1]「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論、論理学で外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法」[2]「実質において論理上虚偽あるいは誤謬でありながら、故意に誤りのある論理展開を用いて、間違った命題を正しいかのように装い、思考の混乱や欺瞞を目的としておこなう謬論」を指す[3]。発言者の「欺く意志」があってこその「詭弁」であり、必ずしも意図的にではなく導かれる誤謬とは区別される。日本では「詭」が漢字制限により当用漢字常用漢字に含まれないため、新聞などでは奇弁論理学などでは危弁と書かれることもある。

英語では sophism 「詭弁、こじつけ、詭弁法」[4]「詭弁、こじつけ、へ理屈、詭弁法」[5]を指す。

解説[編集]

詭弁には、論理展開が明らかに誤っている場合もあれば一見正しいように見える場合もある。そして論理展開が正しいように見える場合、論理的には違反しており、誤った結論でも説得力が増してしまう。上記の現象は不完全な数学的帰納法による、この記事においても以降で解説される早まった一般化前後即因果の誤謬によって起こりやすい。協働関係や社会的合意においては、論理的推論の整合性よりも話者が対象とする聞き手や大衆に対しての言説上の説得(説明)力(ヒューリスティクスを用いた限定合理性への対応)がしばしば効果的であり、このため、説得交渉プロパガンダマインドコントロールのテクニックとして用いられることがある。

歴史[編集]

「詭弁」という語は、『史記』に見ることができる。「屈原賈生列伝」で「設詭辯於懐王之寵姫鄭袖(詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く)」との用例がある[6]。「五宗世家」で「好法律持詭辯以中人(法律を好み詭弁を持して、以て人に中つ)」との用例があり[7]、『史記索隠』は詭弁の語義について「詭誑ノ弁」(あざむき、たぶらかす言葉)と注している。中国の諸子百家のうち「詭弁」を学問に発展させたのが恵施公孫竜などの名家である[8]

古代ギリシャの時代においても詭弁が飛躍的に発展し後世の論理学の発展へとつながっていった[9]。この時代は、弁舌に長じた哲学者達を多く輩出し、日本語で「詭弁家」とも称されるソフィストを生んだ。ゼノンやプロタゴラスは紀元前400年以前のギリシアアテナイなどで活躍し、哲学の分類では名家やソフィストなどを含めて詭弁学派と呼ぶことがある。

ピタゴラスは、4と10という数字に神秘性を感じており、弟子のひとりに、両手の指を、1本、2本、3本、4本と回数ごとに1本ずつ多く曲げさせてゆき、最後に4本曲げたところで10本すべての指が曲がると「お前が4だと思ったのは実は10だった」と説いたというエピソードがある。これは典型的な詭弁とされる[10]

ギリシャ、ローマの時代では、為政者、立候補者が高い地位につくために、人心を得る演説をする必要があった。そのためには、正当な弁論術よりも、詭弁、強弁、争論が有用であったため、ソフィストが台頭することとなった[11]

古典的な詭弁[編集]

古典的な詭弁の例として、古代中国の思想家公孫竜による「堅白異同」[3]や「白馬は馬に非ず」がある。公孫竜の「白馬非馬」の論法を以下に示す(詳細は公孫竜を参照)。これは論点のすり替え、連続性の虚偽と誤った二分法を含んでいる。

「白馬」という概念は、「白」という色についての概念と「馬」という形についての概念とが合わさったものであるから、もはや純粋な形の概念である「馬」とは異なる。したがって白馬は馬ではない。

この種の詭弁は単に言説上の遊びとして軽んじられることがあるが、法(文字)による社会規範を重視する社会では重要であり、例えば「国民は納税の義務を負う」の場合、国民の定義があいまいであれば法の合意や実効力は極端に阻害される。公孫竜の話題では、例えば馬1頭あたりに税を課する場合、白馬は馬ではないとの論証に対して馬の定義があいまいであれば、その論証は有効である可能性がある[注 1]。奴隷や小作、未成年や女性は「人頭」ではないとすれば人頭税の及ぶ範囲は極端に制限されるかもしれない。

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前件否定の虚偽 (denying the antecedent)[編集]

  • A「自分がされて嫌なことは、人にもするな(黄金律)」
  • B「なら自分がされて嫌でなければ、人にしても良いんだな」

Aの発言に対するBの返答は「XならばYである。故にXでなければYでない」という形式の論理であり、これは論理学で前件否定の虚偽と呼ばれる。数学でいうと「自分がされて嫌なこと」は「人にしてはいけないこと」であるための十分条件である。命題から論証なく「」を導き、それを用いる論証。このタイプの推論は、XとYが論理的に同値の時のみ成立する為、恒真命題ではない。

なおこの虚偽は、仮言的三段論法においても適用される。「もしAがBならば、AはCである。しかしAはBでない。故にAはCでない」は、前件否定の虚偽となる。「AがBならば」という仮定をX、「AはCである」という結論をYと置けば、「XならYである。Xでない。故にYでもない」となり、前件の否定を前提とする論理となるからである。

後件肯定の虚偽 (affirming the consequent)[編集]

  • A「対象について無知ならば人は恐怖を感じる。つまり、怖がりな奴は無知なんだよ」

Aの発言は「XならばYである。故にYであればXである」という形式の論理であり、これは論理学で後件肯定の虚偽と呼ばれる。命題から論証なく「」を導き、それを用いる論証。このタイプの推論も、前件否定の虚偽と同じように、XとYが論理的に同値の時にしか成立しないので、恒真命題ではない。Aの発言は、「シャチは哺乳類である。故に哺乳類はシャチである」という推論と同じ論理構造である。仮に「無知だから怖がる」という前提が真であったとしても、その前提から「怖がりな人は無知である」と結論することは論理的に誤りである。怖がりな人は無知であるかもしれないし、無知ではないかもしれないからである。(逆は必ずしも真ならず

媒概念不周延の虚偽 (fallacy of the undistributed middle)[編集]

  • A「頭の良い人間は皆、読書家だ。そして私もまた、よく本を読む。だから私は頭が良い

Aの発言は「XはYである。ZもYである。故にZはXである」という形式の三段論法で、これは論理学で媒概念不周延の虚偽と呼ばれる。このタイプの推論は、Z⊆X⊆Y(⊆:部分集合)でない限り成立しないので、恒真命題ではない。Aの発言は「カラスは生物である。スズメバチも生物である。故にスズメバチはカラスである(あるいはカラスはスズメバチである)」という発言と論理構造が等しい。また、Aの発言について、「頭の良い人間は皆、読書家だ」が真であったとしても、「読書家は頭がいい」はそれの逆となるため、必ずしも真であるとは限らない。

早まった一般化 (hasty generalization)[編集]

  • A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ

Aの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしており、早まった一般化となる[注 2]。仮に「男というものは暴力が好きなのかもしれない 」と断定を避けていれば、その発言は帰納となる(帰納は演繹ではないので、厳密には論理的に正しくない)。Aの発言を反証するためには、暴力が好きでない男の存在(ある男は暴力的でない)を示せばよい。Aの発言は、「1は60の約数だ。2も60の約数だ。3も60の約数だ。4も60の約数だ。5も60の約数だ。6も60の約数だ。つまり、全ての自然数は60の約数なのだ」と論理構造は等しい。

この種の話法例は容易であり「ある貧困者が努力により成功した」「ある障害者が努力により成功した」などの論調により統計的な検証を待たずして真の命題として認証される誤謬の原因となる可能性がある。ある貧困者や障害者が「努力」を要因として成功したとしても、それは問題の解決にとって論証的に有効な提示となりえるかどうかは分からない。都合の良い事例や事実あるいは要因のみを羅列し、都合の悪い論点への言及を避け、誤った結論に誘導する手法は「つまみぐい (チェリー・ピッキング)」と呼ばれる。また、極稀な例を挙げ、それをあたかも一般的であるように主張することもこの一種となる。

合成の誤謬 (fallacy of composition)[編集]

  • A「Bさんの腕時計はロレックスで、財布とサングラスはグッチだった。きっと彼はお金持ちに違いない

これは「ある部分がXだから、全体もX」という議論で、合成の誤謬と呼ばれる。この例では金持ちでなくても他の部分で節約しつつ、いくつかの高級ブランド品を購入して着用している可能性もあるため必ずしも真ではない。

早まった一般化との違いは、最初に着目するものが「全体に対しての部分」であるという点。この種の論証は必ずしも真ともならないが必ずしも偽ともならない。もしこの種の論法がつねに有効であるとすれば、「Bさんは白ワインが大好きだ。他にもエビフライ、アロエのヨーグルト、カスタードクリームが好きだと聞いた。なら、白ワインとカスタードクリームを混ぜたアロエのヨーグルトをエビフライにかけた物も喜んで食べるに違いない」といった推論がつねに正しいことになる[注 3]

経済学では、ミクロ経済で通用する法則がマクロ経済でも通用するとは限らない、という論旨で使われる。自然科学や社会科学では、複雑系では還元主義的手法が通用するとは限らない、という論旨で使われる。

分割の誤謬 (fallacy of division)[編集]

  • A「○○国のGDPは高い。だから○○国民は経済的に豊かだ。」

これは「全体がXだから、ある部分もX」という議論で、分割の誤謬と呼ばれる。合成の誤謬とは逆のパターンの詭弁。Aの発言は「Bさんはカレーライスが大好物だ。だからニンジンやジャガイモや米やカレー粉をそのまま与えても喜んで食べるだろう」と論理構造が等しい。

媒概念曖昧の虚偽 (fallacy of the ambiguous middle)[編集]

  • A「は水に溶ける。あなた方は地の塩である。ゆえにあなた方は水に溶ける[12][注 4]
  • B「(自動車)は運転免許が必要な乗り物だ。自転車は(車両)である。ゆえに自転車は運転免許が必要な乗り物だ

Aの発言は「MはPである。SはMである。故にSはPである」と一見第一格の三段論法に見えるが、文脈によって異なる意味を持つ単語を媒概念に使用しており、「大前提M-Pの文脈におけるM」と「小前提S-Mの文脈におけるM」が異なるため、命題は成立しない。

連続性の虚偽 (Continuum fallacy)[編集]

  • A「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である。」
  • B「建築契約には高額の追加費用の発生の際には事前に承認を求めよとあるが、10万円は高額ではない。」

術語の曖昧性から生じる砂山のパラドックスを利用した弁証法。ハゲのパラドックス (fallacy of the bald)、あごひげのパラドックス (fallacy of the beard) とも。Aは「砂山」の定義が、Bは「高額」の定義が、その量に関して曖昧であるため詭弁が成立する。閑散とした食堂を「繁盛店」と広告する(何人の客が入っていれば繁盛と呼べるのか不明確)などこの種の弁論は容易であり、社会生活上しばしば見られる。

未知論証 (ad ignorantiam)[編集]

  • A「B氏は地底人がいないと断言している。しかし、そんな証拠はないので地底人はいることになる」

Aの発言は、「XがYでない事は誰にも証明出来ない。故にXはYである」(存在しない根拠が無いということは「それが有る」ことの証明にはならない)という形式の推論で、これは未知論証という。「結論できない」という前提から「結論」を推論しているので、前提と結論が矛盾する。排中律を前提としない論証においては、証拠がないことを根拠に物事を証明することはできない。この種の論証がもし有効であれば、部屋のなかにいるだけで宇宙のありとあらゆることが証明可能になってしまう(「宇宙には果てがあるというが、そんな証拠はない。よって宇宙には果てが無い」「引力は宇宙のすべての場所で機能しているというが、そんな証拠はない。よって万有引力の法則は間違っている」等々)。これは「A氏は地底人がいると断言しているようだが、そんな証拠はない。地底人はいない」という一見すると常識的な論証についても同様であり、地底人の存在について何らかの論証的な判断を下そうとする場合には、「証拠の有無」に対して「証拠がある場合は十分な吟味により結論が推定され」「証拠が無い場合は論証的には何も言えない」とするのが正しい。科学的方法においてしばしば未知論証が重大な誤謬の原因となる。消極的事実の証明ともいう。

  • A「B氏はC氏をこの事件の犯人だと推理しているようだが、そんな証拠はない。C氏はきっと犯人ではない

法廷においては、未知論証の誤謬は例外的に証明責任により代替される。原告・被告ともに十分に立証活動を尽くしても、裁判官が争点になった事実があるのかないのか確信できない場合があり、科学の立場ではそれぞれの意見を仮説として両論併記することが可能であっても法廷では裁判を拒否することはできず、結論を出さなければならない。そのため真偽が不明であるにもかかわらず、争点となった事実の有無を擬制して裁判をする必要性が生じ、結果生じる一方の当事者の不利益が証明責任である。法廷においてはB氏に挙証責任があり、B氏が法廷に対しC氏が犯人であると確信するに足る証拠を挙げることができなければ、未知論証であるにもかかわらず、Aの主張のようにCは犯人ではないものとして扱われる。法格言ではこれを「証明は主張する者にあり、否定する者になし」という。

誤った二分法 (false dilemma)[編集]

  • A「君は僕の事を『嫌いではない』と言ったじゃないか。それなら、好きって事だろう」

Aの発言には、「君は必ず僕の事が『好き』か『嫌い』かのどちらかだ」という大前提が隠されている。したがって論理構造としては「Xは必ずYかZのいずれかである。然るに、XはYではない。故にXはZである」という形式の三段論法となるが、仮に「Xは必ずYかZのいずれかである」という前提が偽であるなら(言い換えると「XがYでもZでもないケースが存在する場合」)、このような推論は誤謬となり、「誤った二分法」と呼ぶ。Aの発言の場合、実際には「好きでも嫌いでもない」や「無関心」などの「好き」「嫌い」以外の状況も考えられるため、この大前提は偽である。

  • B「このまま借金取りに悩まされる人生を送るか、自殺するか、二つに一つだ

Bが借金の返済が不可能な状態に陥っていても、自己破産が可能である場合、その選択肢を除外しているので、誤った二分法となる。

なお、「XはYかZのいずれかである。然るに、XはYではない。故にXはZである」という推論において、非ZがY、Zが非Yと論理的に同値である場合、それは矛盾原理および排中原理に従った恒真命題となる(例「あらゆる自然数は素数か素数ではないかのいずれかである。2は「素数ではない」ではない。故に2は素数である」)。「誤ったジレンマ」またはただ単に「二分法」とも呼ばれる。英語では false dilemma の他に false dichotomy、excluded middle、bifurcation などとも言う。

隙間の神 (God of the gaps)[編集]

  • A「この現象は科学では説明できない。だから神の仕業としか考えられない

未知論証の一つ。創造科学やオカルト的な主張でよく用いられる論法である。神は自然現象の未解明の部分(隙間)に住んでいて、新たな事実が解き明かされ、未解明な部分が減っていくと神の住むところもどんどん狭くなっていくという皮肉が込められた呼称。

論点のすりかえ (Ignoratio elenchi)[編集]

  • A「スピード違反の罰金を払えというが、世間を見てみろ。犯罪であふれ返っている。君たち警察官は私のような善良な納税者を悩ませるのではなく、犯罪者を追いかけているべきだろう。」
  • B「トマス・ジェファーソンは、奴隷制度は間違いであり廃止すべきだと主張した。しかしジェファーソン自身が奴隷を所有したことから明らかなように、奴隷制そのものは間違いではなかった。」

論じている内容とはちがう話題(主題)を提示することで論点をそらすもの。論理性が未熟なために陥る場合は誤謬であるが、意識的におこなう場合は詭弁となる。燻製ニシンの虚偽 (red herring) とも。Bの例ではジェファーソン個人の言動の不一致をもって「奴隷制度そのもの」を話題にしており「お前だって論法」(tu quoque) ないしは人身攻撃を利用した論点のすりかえである。 ただし論点そのものが複数存在している場合、論点のすりかえは必ずしも成り立たず、その場合詭弁としては合成・分割の誤謬に分類される。

ストローマン (Straw man)[編集]

  • A 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
  • B 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」

わら人形、わら人形論法、架空の論法ともいう。Aが主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、さも主張しているかのように取り上げ論破することでAを論破したかのように見せかける。燻製ニシンの虚偽 (red herring)。論理性が未熟なため相手の主張を誤解している場合は誤謬であるが、意図的に歪曲している場合は詭弁となる。議論が過熱し論点が見えにくくなると起きやすい。社会生活上よく見られる。

対人論証 (ad hominem abusive)[編集]

  • A「私は生活必需品の消費税を廃止するべきだと思う」
  • B「A氏はそんな事を主張しているが、彼は過去に傷害事件を起こしている。そんな者の意見を取り入れる事はできない」

Bの発言は、Aの主張そのものではなくA自身に対して個人攻撃することで反論しているため、対人論証となる。「Aが傷害事件を起こした」という事は、A自身の信用を失墜させる効果はあるが、Aの主張の論理的な正否とは無関係であるため、論理的には正しい反論ではない。このように、論敵を貶めて信用を失わせようとする目的で行われるのが対人論証で、人身攻撃の一種。同時に、相手の主張の正否から「相手を信用できるか」への論点のすり替えでもある。

連座の誤謬 (guilt by association)[編集]

  • A「科学者Bの学説に対し、C教が公式に賛同を表明した。しかしC教は胡乱なペテン集団だ。B氏の学説もきっと信用には値しない

これも対人論証の一種で、「その主張を支持する者の中にはろくでもない連中がいる。故にその主張は間違った内容である」というタイプの推論である。どのような個人または集団に支持されているか、という事柄は数学的・論理学的な正しさとは無関係なので、これは演繹にならない。

状況対人論証 (circumstantial ad hominem)[編集]

  • A「そろそろ新しいデジタルカメラが欲しいって話をC君としたら、D社の新製品を勧められたよ」
  • B「C君のお父さんはD社に勤めているんだから、C君がそう答えるのは当然さ。買わない方がいい」

Aに対するBの発言は、特定の人間が置かれている『状況』を論拠としている。「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、「C君のお父さんはD社に勤めている。故にD社のデジタルカメラは買わない方がいい商品である」は演繹にならない。このように、「その人がそんな事を言うのは、そういう状況に置かれているからに過ぎない(故に信用に値しない)」というタイプの対人論証を指して、「状況対人論証」と呼ぶ。

ヒュームの法則(Hume's law)[編集]

  1. たばこを吸うことは健康に悪い。
  2. したがって、たばこを吸ってはならない[13]

この推論では、事実命題英語版(「XはYである」という形式の英語版)から規範命題英語版(「XはYすべきである」という形式の文)を導いている。この推論は誤りである。この推論を受け入れると、あらゆる制度の改革が許容されなくなり、不合理英語版であるからである。例えば、「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきである」という推論を受け入れなければならなくなる。

このことをヒュームの法則[14]またはIs-Ought問題(英語: is-ought problem[15]と呼ぶ。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』で、倫理に関係のない(non-moral)前提から倫理的な結論を導くことはできないと主張した[16]

自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)[編集]

  1. ビールを飲むことは快い(pleasant)。
  2. したがって、ビールを飲むことは善い(good)[17]

自然主義的誤謬は、ある対象の持つ属性(「自然である」「快い」「によって命じられた」など)から、その対象が「善い」という評価を導出する誤謬である[13][17]

ジョージ・エドワード・ムーアは、倫理に関係のない(non-moral)述語で倫理的な述語(特に「善い」)を定義することはできないと主張した[18]

道徳主義の誤謬(moralistic fallacy)[編集]

  • A「人間は皆生まれながらに平等であるべきだ。だから能力が遺伝するという研究結果は間違っている。」

規範文の前提から記述文の結論を導く場合に生じる誤謬。道徳律は定言的命法により記述されるため、その定言命題が真の場合は得られる結論に倫理的強制力をもつ構造がある。Aの主張が「遺伝に関する研究を行うべきではない」である場合、これは倫理上の課題として妥当な推論である可能性がある。しかし「研究結果」そのものを否定している場合、その結果が事実であったとすれば、規範により観察事実を曲げてしまっている。この主張は「人を殺してはいけない。だから殺人事件はおこらない(人は殺されない)」と論理構造が等しい。倫理的な指針を主張することで「危険な知識」の収集を規制しようと意図する場合に見られる。アメリカの微生物学バーナード・デイビスが自然主義の誤謬をもじり命名した。ought-is problem。

同情論証 (ad misericordiam)[編集]

  • A「そんなふうに言うもんじゃない。B君がかわいそうだよ

Aの発言は、「XをYするのはかわいそう。故にXはYすべきではない」という形式の推論で、これは同情論証という。同時に、かわいそうであるか、そうでないかという論点へのすりかえでもある。

伝統に訴える論証 (Appeal to tradition)[編集]

  • A「ぜいたくはだめだよ。昔から節約は美徳とされていたからね」

Aの発言は、「過去から使われている意見は正しい」という形式の推論。不測の事態の発生を防ぐという先例主義という考え方もあるが、「過去にその意見は正しいから採用されたのか」「関係する状況は現在と過去で変わっていないか」の二点が立証されないと根拠にはならない。

新しさに訴える論証 (Appeal to novelty)[編集]

  • A「そのやり方はもう古いよ。最新の方法を使うべきだ

伝統に訴える論証とは逆に、過去と現在では状況が変わっているとすることを前提にした推論。科学の発展や流行の推移、社会事情の変化などで説得力を持たせようとしているが、新しいだけでは根拠にはならない。

権威論証 (ad verecundiam)[編集]

  • A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう

Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。権威に訴える論証とも。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。

論点回避 (Begging the question)[編集]

  • 「喫煙者はいつでも禁煙できます。彼に必要なのは禁煙する能力なのです。」

推論の前提となる命題の真偽を問わず結論を真とする。あるいは前提に仮定を置いて得られた結論を真とする。上の例では「禁煙する能力」について問うことなく「いつでも禁煙できる(結論)」を主張している。倒置法となっているが、論理構造は「もし禁煙する能力があれば、喫煙者はいつでも禁煙できる」である[注 5]

論点先取 (petitio principii)[編集]

  • A「Bさんは勤勉な人だから、仕事を怠けるはずがないよ。」

Aの発言は、前提の中に結論を導く事が出来る情報を「あらかじめ」含めている。このように、見掛け上は『論理』の形になっているものの実際は同義反復の推論を論点先取と呼ぶ。同義反復(「XはXである」という演繹)は恒真命題であるが、何かを証明する内容ではない。Aの発言は、「ルノワールは偉大な画家である。何故なら、素晴らしい画家だからだ」と論理構造が等しい(このように発言するだけでは、ルノワールについて何も証明した事にならない)。論点回避の一つ。先決問題要求の虚偽。 論理構造としては、「(勤勉な人はすべて仕事を怠けないと仮定する。Bさんは勤勉な人であると仮定する。すると)Bさんは勤勉な人である。故にBさんは怠けない。」「(素晴らしい画家は偉大な画家であると仮定する。ルノワールは素晴らしい画家であると仮定する。すると)ルノワールは素晴らしい画家である。故に偉大な画家である。」仮定の部分の論点を先取り(回避)した論理構成となっている。

循環論証 (circular reasoning)[編集]

  • A「B君の言っている事は詭弁だ(屁理屈だ・揚げ足取りだ)。だから間違っている。」

論点先取の中でも、「前提が結論の根拠となり、結論が前提の根拠となる」という形式の推論を、循環論証と呼ぶ。Aがこの発言の後に、どのような理由から詭弁(または屁理屈)と言えるのか説明出来なければ、Aの発言は「B君の言っている事は詭弁だ。何故なら間違っているからだ。何故間違っているかというと、詭弁だからだ」と述べているだけの内容となるので、循環論証になる。こういった循環論証を、英語では"that's a fallacy" fallacyという。論点回避の一つ[注 6]

含みのある言葉 (loaded language)[編集]

  • A「私達は、罪なき善良な社会的弱者により一層の苦痛と不幸を強いるだけのB知事の冷酷で残酷で無慈悲で恥知らずな政策に、知性と良識ある善人なら当然そうするように反対の意を表明しました。」
  • B「今般の軍事作戦により、我が国はかつての海外領土を回復した。なんと素晴らしい事ではないか!
  • C「現状の国難を打開するには大人の成熟した判断が必要とされる」

これも論点先取の一種で、読み手(聞き手)に話題・論題への先験的な感情を惹起させようとする文章を言う。論理性ではなく「語調」に頼った主張を、loaded language(または emotionally charged words)と呼ぶ。必ずしも例Aのように感情的・攻撃的・侮蔑的な形容句で装飾された文章のみを指すものではなく、常用語を用いた文章も含む。たとえば例Bは「獲得・征服」ではなく「回復」という言葉で獲得した領土が本来自国に帰属するものだったと思わせようとしており、例Cでは「大人・成熟」という術語を用いることで根拠なく「反対者は子供っぽい意見の持ち主だ」と先験的な価値判断(ラベル・レッテル)を貼っている。このタイプの詭弁は、情報操作プロパガンダの手法として使われる[注 7]。受け手の感情や価値判断を暗黙に刺激するkey wordを文中にひそませ、ちりばめることで論理によらずに受け手を操作する。論点回避の一つ。

脅迫論証 (ad baculum)[編集]

  • A「黙って私に従えないなら、ここから出て行け」(※「裁判所法第七十一条(法廷の秩序維持)の規定に従い、法廷の秩序を乱す者は、ここから出て行け」 )
  • B「国境線はここだと主張しているが、そんなことは許さ(れ)ない。国境線はあちらだ。」

Aの発言は、「あなたがXしないなら、私はYをする。故にあなたはXすべきである」という形式の推論で、脅迫論証という。前件の仮言的命題と後件の命題は、論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、この推論は演繹にならない。Aの脅迫論証は「お前がすべき事は黙って私に従うか、ここから出て行くかのいずれかである。しかし、お前は黙って私に従わない。故にお前はここから出て行くべきである」という論旨なので、脅迫論証であると同時に「誤った二分法」(前述)にもなっている。

Bは「(なぜなら)○○条約によれば〜」などと論証すべきところを脅迫や威嚇の文言で置き換えており有効な演繹推論となっていない。「ゆるさない」と自発の助動詞を挿入する事で、主語・主体を曖昧にすることで、あるかどうか分からない根拠を暗示・示唆する(未知論証)なり、権威論証(上述)、あるいは多数論証(みなが許さないといっている)なりに持ち込む方法がある。たとえば「規則ですから」という漠然とした言いまわしは、その規則を制定した意志主体を曖昧にするもので、この方法の一種といえる。制定法は議会によるものであれ主君(主権)の命令によるものであれある種の脅迫論証をつねに含んでおり、正当性の契機(法源)が重要となる。

多数論証 (ad populum)[編集]

  • A「B君も早くCを買うべきだ。もう皆そうしている

Aの発言は「Xは多数派である。多数派は正しい。故にXは正しい」というタイプの推論。『多数派』は『正しい側』と論理的に同値ではなく包含関係にもないので、この論理は演繹にならない。むしろこの論理は、多数派に属しないと不利になるという脅迫論証の一種といえる。また、Aが「多数派は正しい。故に多数派ではなければ(少数派であれば)正しくない」という意味で発言しているならそれは前件否定の虚偽でもある。また、Aの多数論証は、規範文(そうするべき)の根拠が記述文(そうしている)になっているため、自然主義の誤謬(前述)にもなっている[注 8]。 なお、厳密には「全員」ではないにもかかわらず「皆」「誰も」という言葉が使われているような場合、これを誇張法 (hyperbole) という。誇張法は詭弁ではなくレトリック。無論、計数可能な「皆」「誰も」が肯定しているからといってその命題が正しいかどうかは分からない[注 9]

多重尋問 (complex question)[編集]

  • A「(万引きをした事が明らかではない人に対し)もう 万引きはやめたの?」

複問の虚偽とも。『実際に万引きをした事がある人』ではない人にこう質問すると、多重尋問となる。「はい」と答えれば、過去に万引きをしたと認める事になり、「いいえ」と答えれば、現在も継続して万引きをしていると認めた事になってしまうので、万引きをした事が一切無い人にとっては、どちらで答えても不都合な結果になる恐れがある。これは、この多重尋問がこれまでに 彼が万引きをしていた事を暗黙の前提としているためである。 質問者は修辞的にこのような質問を行い、特に返答を期待していないことが多い。複層・混乱した尋問として因果関係や相関関係の証明がない命題を列記してそれに質問をおこなう形式がある。

  • B「政治は変わらなければならない。C党首に全権力を集中させなければならない。このままでいいんですか?」
  • D「さあ、よくこの商品を見てくださいよ。もう誰もあなたが美しくなる事をとめることは出来ない。誰ができるというんですか?」 (buttering-up)

Bは第一命題と第二命題に論理上の関連がない場合、第一命題について「このままでは良くない」と結論することは第二命題には何ら影響はない(第二命題に対しても同様)。Dは「(あなたが)この商品を見ること(をとめることは誰も出来ない)(第一命題)」と「あなたが(この商品で)美しくなることをとめることは誰にもできない(第二命題:おべっか (buttering-up))」が錯綜した構造になっており、これに多重尋問を行うことで第一命題・第二命題とも否定することができない構造となっている(商品に注目させる効果)。

詭弁とパラドックス[編集]

詭弁と似たものにパラドックスがある。パラドックスは詭弁に比べて、より正確で厳密な推論を進めることに特徴がある。パラドックスの例としては、ゼノンのパラドックスのように論理展開が正しいように見えて結論が誤っているものや、双子のパラドックス誕生日のパラドックスのように結論が誤っているように見えるが正しいもの、自己言及のパラドックスのように矛盾に関連したものなどがある。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 韓非子外儲説にこれにもとづく説話がある
  2. ^ つまり、暴力が好きな男が存在する(ある男は暴力的である)という個別の事実から、暴力が好きでない男が存在するはずがない(すべての男は暴力的である)という全称判断(断定)を引き出しており、誤りを犯していることになる。
  3. ^ 逆に「Bさんはエビフライとトンカツとカレーライスが大好きだ。だからエビフライとトンカツをカレーライスに載せたものも喜んで食べるに違いない」といった推論がつねに偽であるとすることもできない。合成の誤謬の典型的な例についてはコモンズの悲劇も参照。
  4. ^ 「地の塩」は福音書の一節。
  5. ^ なお、「できる」「能力」という語自体が、後述される含みのある言葉 に該当する。(たとえば老人力など)
  6. ^ 帰納的な命題を、論理的な命題と解したとき、循環論証となることがある。たとえば「(1)すべての人間には寿命がある。(2)Aは人間だ。(3)よってAには寿命がある」という推論の大前提(1)は、寿命のない人間の例が、これまでに一つも知られていないことから導かれたものである。これを論理的な命題と捉えると、結論(3)を知っていなければ大前提(1)の全称判断は得られないため、循環論証となる。
  7. ^ その他にもたとえば一時的に引き上げられていた課税率を下げることを「減税」と呼ぶ、臨時の減税措置を解除することを「増税」と呼ぶような場合、あるいは販売予定価格に割り増した額を最初に提示し「今日は特別に値引きします」などと提案する場合、それぞれ「減税」「増税」「値引き」などがloaded languageである。
  8. ^ ちなみに、この論証は、「あなたはサムライでありたいならば、あなたも刀をもつべきだ。なぜならば、すべてのサムライが刀をもっているからだ」という論法と同型である。かりにこの論法を認めたとしても、これまでのすべてのサムライが刀をもっていたことが、これからのサムライが刀をもつべき理由とはならないため、やはり自然主義の誤謬を犯していることになる。
  9. ^ またレトリックとして見た場合、Aの発言は、「これから皆がそうしてほしい」という発言者の願望を表現している可能性もある。

出典[編集]

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典小項目事典
  2. ^ 小学館デジタル大辞泉
  3. ^ a b オープンアクセス平凡社 編『大辞典』 七、平凡社〈大辞典〉、1936年、620頁。NDLJP:1873360/316 
  4. ^ 研究社新英和中辞典"sophism"
  5. ^ Eゲイト英和辞典"sophism"
  6. ^ オープンアクセス国民文庫刊行会 編「国訳史記列伝 上巻 屈原賈生列伝第二十四」『国訳漢文大成 経子史部 第15巻』 上巻、箭内亘訳註(4版)、国民文庫刊行会〈国訳漢文大成〉、1924年、373頁。NDLJP:926465/191。"【四○】詭弁。詐術。"。 
  7. ^ オープンアクセス司馬遷「五宗世家第二十九」『史記 第3至5』 第12〔3〕、有朋堂〈漢文叢書〉、1927年、555頁。NDLJP:1118527/282 
  8. ^ 野崎昭弘 1976, p. 62.
  9. ^ 野崎昭弘 1976, p. 58.
  10. ^ 野崎昭弘 1976, p. 60.
  11. ^ 野崎昭弘 1976, p. 61.
  12. ^ 野崎『詭弁論理学』(2007年)[出典無効]より引用。
  13. ^ a b Ethics Explainer: Naturalistic Fallacy” (英語). The Ehics Centre (2016年3月15日). 2022年12月7日閲覧。
  14. ^ David Hume” (英語). Stanford Encyclopedia of Philosophy. 2022年12月7日閲覧。
  15. ^ 相松慎也. “ヒュームの道徳哲学と規範”. 東京大学. 2022年12月7日閲覧。
  16. ^ Pigden 2018, p. 73.
  17. ^ a b Moral Non-Naturalism”. Stanford Encyclopedia of Philosophy. 2022年12月7日閲覧。
  18. ^ Pigden 2018, p. 74.

参考文献[編集]

  • 小野田博一『正論なのに説得力のない人 ムチャクチャでも絶対に議論に勝つ人-正々堂々の詭弁術』日本実業出版社、2004年。ISBN 9784534038128 
  • 野崎昭弘『詭弁論理学』中央公論新社〈中公新書〉、1976年。ISBN 9784121004482 
  • 三浦俊彦『論理学がわかる事典』日本実業出版社、2004年。ISBN 9784534037107 
  • Pigden, Charles (2018). “No-Ought-From-Is, the Naturalistic Fallacy, and the Fact/Value Distinction: The History of a Mistake” (英語). The Naturalistic Fallacy (Cambridge University Press): 73-95. doi:10.1017/9781316717578.006. 

文献情報[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]