2011年11月23日水曜日

「海軍工廠」とは何か

◆「海軍工廠」のもっとも簡潔な定義は「海軍の直轄兵器工場」です。陸軍は、太平洋戦争時、直轄兵器工場を「原ノ町陸軍造幣廠」というように「〇〇造兵廠」と呼んでいましたので、この時期の「工廠」は海軍用語と言ってよいと思います。「廠」の字には「大きな建物」「作業場」という意味があり、住家には使わない字ですが、わが国では陸海軍以外に使用された例を知りません。
◆海軍工廠はその名前からして海軍の施設らしいことは推測がつきます。海軍は、陸軍とならび戦前の大日本帝国軍隊を構成し、軍政をつかさどる海軍省(トップは海軍大臣)と軍令(情報収集、作戦立案、演習、戦闘の指揮)をつかさどる軍令部(同総長)で構成されていました。
◆海軍工廠は「海軍工廠令」により必ず海軍の鎮守府に所属することになっていました。鎮守府とは海軍の地方機関で、わが国と周辺海域を分担して防衛しかつ軍政を担い、海軍省と軍令部双方の指揮下にありました。鎮守府は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4ヵ所に置かれていました(舞鶴は一旦廃止された後、昭和期に再設置されました)。多賀城海軍工廠が所属していたのは、樺太から東海、南洋諸島まで管轄していた横須賀鎮守府です。

多賀城にとっての「多賀城海軍工廠」の位置



◆「多賀城」村は、1889年(明治22)、宮城郡内13ヵ村(市川、浮島、大代、笠神、下馬、山王、高崎、高橋、留ヶ谷、南宮、新田、東田中、八幡)が合併し誕生しました。以後1951年に町制、1971年に市制施行。東西7.8キロ、南北4.2キロ(面積19.65k㎡)に63,000人が住んでおり、人口密度は塩竈市に次ぎ東北第2位になっています。
◆村名「多賀城」は、奈良・平安時代に陸奥国府が設置されておりその城柵名が「多賀城」と呼称されていたことから採用されたものです。「多賀城」は724年に大野東人により創建されました。785年には多賀城にて大伴家持が亡くなっています。発掘調査により、平安時代には碁盤の目状に街並が形成されていたことが解かっており、869年には大地震が発生、津波により1,000人が死亡したという記録が残っています(貞観大地震『日本三大実録』所収)。この痕跡は発掘調査でも確認されています。今回の東日本大震災は869年の「貞観の大津波」以来の大災害となりました。源頼朝は、1189年の「文治5年奥州合戦」の際、平泉への行きかえりに多賀国府に立寄っていますが、その時期の場所はわかっていません。しかし、多賀城跡からそれほど遠くない所に引き続き国府機能を備える施設があったと考えられています。1333年には後醍醐政権が陸奥幕府を開設。1400年以降は奥州の中心地が大崎に移り、多賀城周辺は純農村となりました。1689年に松尾芭蕉が多賀城を訪れています。かつての都の面影がないなか、唯一いにしえの繁栄を示す「壺の碑」に芭蕉は「疑いなき千歳の記念」と泪しています。
◆この純農村多賀城に人口急増の転機が訪れたのは、1942年から始まった多賀城海軍工廠の造営でした(下図参照)。同工廠は実に多賀城村域約20k㎡の4分の1、496㌶に達し、これが今日の多賀城市の街並みの原型となっています。したがって海軍工廠ぬきに多賀城を語ることはできません。戦後、工廠跡は米進駐軍のキャンプ地となり、のち工業団地、公務員官舎、自衛隊駐屯地、東北学院大工学部キャンパス等になっています。
◆以上から私は、「多賀城海軍工廠」造営は陸奥国府設置とならび本市の「歴史上の2大事件」と規定しています。

戦時下の多賀城・松島…。戦争遺跡の保存を。

Ⅳ.連日の空襲と海軍の特攻作戦

(1)多賀城国民学校日誌に記されたグラマン空襲【19p】

(2)最後まで戦おうとした陸海軍部―石巻湾での海軍の特攻作戦【20p】

Ⅴ.戦争遺跡の保存を

(1)県内の他の旧海軍遺跡
◇海軍第1火薬廠(船岡火薬廠)。三門山高射砲台跡。
◇海軍松島航空基地(現航空自衛隊松島基地)および地下司令部跡(鳴瀬町牛網)
◇特別攻撃隊「震洋」「海龍」「蛟龍」の出撃基地(宮戸、荻浜等)【20p】

(2)戦争遺跡は平和の語り部
◇戦争遺跡は①歴史の研究対象、②生涯学習の教材、③平和の語り部。
◇1995年に文化財保護法が改正。戦争遺跡が文化財として指定保存管理の道が。
◇機銃部試射場跡、火工部土塁・建物跡、引込線跡、松島地区等の保存を。

Ⅵ 憲法9条を守り平和な日本を!

                  (以上)

ようやくわかった「多賀城海軍工廠」「松島地区」

(1)ようやく解明できた「多賀城海軍工廠松島地区」

「松島町高城に地下工廠があった」ということは地元のあいだではささやかれてきた。まず調査に着手したのは宮城歴史教育者協議会の先生方であった。しかしその全体像は明らかになっていなかった。といのは図面の存在が明らかでなかったからである。「くらしと民主主義、史跡・緑をまもる多賀城懇話会」(略称「多賀城懇話会」大村武平代表)は多賀城海軍工廠開設60年にあたる2003年に「多賀城海軍工廠展」を実施することにし調査に乗り出した。中心になったのは私であったが、その過程で中川正人先生から資料を提供していただいた。その中に海軍の残務処理にあたっていた「第二復員省」から米占領軍への「『多賀城海軍工廠松島地区』引渡目録(図面付)」が含まれていた。青焼をコピーしたものだったので全体真っ黒であったが、幸い高城川と東北本線(昭和19年11月15日に海岸周り開通)は確認でき、地下工廠は尾根を利用していることがわかった。それをとりあえず住宅地図のコピーに落とし、現地調査を繰り返した。地図を松島町から購入し制度は徐々に高まっていった。その成果が以下に示す、藤原作成の図面である。これによって「多賀城海軍工廠松島地区」の全容が初めて明らかになり、関係者から注目されるようになった。




(2)なぜ松島地下工廠が造られたのか

◆軍事的背景

全体像を以下に示すが、その前に「なぜ松島に地下工廠が造られたのか」明らかにしたい。
横須賀海軍施設部が松島地下工廠に着手したのは昭和19年の秋であった。元校長の長南親雄氏は「工事のために明神橋が拡幅されることになり、東側のたもとに住んでいたわが家が立ち退きになったのでよく覚えている」と証言する。
昭和19年秋はどういう情勢であったか。19年7月、サイパン島が陥落し以後本土空襲が繰り返されるようになった。その中で大本営本部は本土決戦の準備に移行、全国の軍事施設を地下に潜るよう指示をだした。
例えば、「松代大本営」跡は超有名であるが、19年10月4日に「マ(10・4)工事」として命令が下され、舞鶴山に初発破がかけられたのは11月11日11時11分であった。
慶応大学日吉校舎の地下に「連合艦隊司令部」壕が造られたが、着工は19年8月15日で、第3010設営隊(1,500名の大型設営隊)が工事の中心となった。
沖縄県豊見城には「海軍沖縄方面根拠地隊地下司令部」が造られた。着工は19年8月である。
沖縄県首里城下には「沖縄守備軍」=「第32軍」「地下指令部」壕が造られた。着工は19年12月である。
こういう時期に松島地下工廠も着手された。すなわち、樺太から台湾まで、ありとあらゆる軍事施設が地下に潜ることになったのだが、多賀城海軍工廠もその一環として地下工廠をつくることになった。

◆地理的要請

「多賀城海軍工廠」の地下工廠なので」あるから、多賀城からそれほど離れるわけにはいかない。おそらく、多賀城の山(丘)は低すぎ、塩竈はすでに人口密集地となっていたため敬遠され、利府町は砂地のために除外され松島になったものと思われる。

◆造成を担った人々
「松島地区」建設の指揮にあたったのは当然「横須賀海軍施設部」であったろう。建設に当たった人たちは「多賀城地区」同様、朝鮮人徴用工員、タコ部屋の人たちであった。元町議相沢佐和子さんは「飯場は現松島高校付近にあった」と証言している。おそらく国有地を宮城県が買い取り松島高校を開設したのだろう。
注意を要することは人夫は相当強引に集められたであろうことである。戦争に駆り出され、国内には男子青壮年はいない。こうした中、全国で軍事施設の地下化が図られたのであるから、相当強引に、強制的に集められたであろうことは容易に想像できる。私には松島地下工廠跡に残るつるはしの跡は、働いた人たちの悲鳴の爪痕に見える。


(3)「松島地区」の概要

(4)「松島地区」「南区」(松島地下工廠機銃部)の全体像



(5)「多賀城海軍工廠松島地区北区」図面





(4)松島では部品製造のみ、組み立ては多賀城で。多賀城~高城間はトラック輸送。



(5)動員学徒(旧制古川中黒羽武蔵さん)の証言(『多賀城海軍工廠 中学生たちの戦争19ヶ月のものがたり』より)【17~18p】

「多賀城海軍工廠」「多賀城地区」の施設概要

◆『多賀城海軍工廠引渡目録』(写し)










◆多賀城海軍工廠多賀城地区建物配置図

2011年11月14日月曜日

なぜ多賀城に「海軍工廠」が造られたのか。

◆軍事的要請

  昭和10年前後、戦闘機の機銃(海軍の呼び名。陸軍は機関銃)は7.7ミリが主流でしたが、世界ではすでに20ミリ機銃も出始めていました。海軍は次期戦闘機には20ミリ機銃を搭載する方針を固め世界各地を調査。採用したのは軽くて衝撃の少ないエリコン社(スイス)製の20ミリ機銃でした。
【写真上】ゼロ戦の翼に装着されていた20㍉機銃(呉市海事博物館にて)。
【写真下】ゼロ戦に装着されていた20㍉機銃(同)。
  他方海軍は昭和12年5月、次期戦闘機(「十二試艦上戦闘機」)の計画要求書を三菱・中島両者に示しましたが、その要求の高さに中島は断念、試作は三菱が引き受けることになりました。試作1号機は昭和14年3月、三菱重工業名古屋航空機製作所の手により作成されました。1,000馬力という小型のエンジンでありながら軽く小回りがきき、航続距離が長くかつ攻撃能力も高いこの戦闘機は優秀さが認められ、昭和15年7月、海軍から制式採用され、この年が「皇紀2,600年」にあたるということから「零式艦上戦闘機」略して「ゼロ戦」と名づけられました。以後「ゼロ戦」は増産に次ぐ増産で、終戦までの総生産数は1万425機にいたりました。
この「ゼロ戦」の翼部分に搭載されたのがエリコン社製の20ミリ機銃でした。当初、20ミリ機銃と弾丸生産を担っていたのは民間の「浦賀船渠」(のちの大日本兵器(株))でしたが、需要に追いつかず、豊川海軍工廠でも生産を始め、鈴鹿での生産計画もたてられました(結果的に鈴鹿では生産されなかった模様です)。それでも20ミリ機銃の生産は需要に追いつかず、新たな海軍工廠の増設が検討されました。以上が多賀城海軍工廠が造られるに至った軍事的要請です。(詳しくは朝日ソノラマ刊、堀越二郎・奥宮正武著『零戦―日本海軍航空小史』をご参照ください)
◆多賀城の地の利
20ミリ機銃生産と弾丸・爆弾製造の海軍工廠を多賀城に選定した理由について、当時海軍の軍務局第1課長で工廠用地選定の担当者だった保科善四郎は①背後に塩釜港がひかえ、鉄道も東北本線と仙石線の2本が通過。国道も通っており「交通の便が良い」。②土地が安い。③東北には豊富で忍耐強く優秀な労働力がある④近くに海軍船岡火薬廠がある、等をあげています(『多賀城市史』第5巻p762~765)。
他の海軍工廠を見ても、海岸沿いにあり、海・陸ともに交通の便が良く、大都市近郊にある等が共通しています。仙台近郊に造ったのも労働力確保の観点からと思われます。
また海軍工廠の所在地には、鈴鹿(伊勢)・豊川(参河)など多賀城の他にも古代の国府や国分寺が置かれてところが少なくなくありません。古代においても政治・経済・交通の要衝であった地が海軍工廠用地として選ばれている点は興味深いところです。