座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆私はこれを思い返す。

2016年05月28日 17時03分35秒 | 聖書
それゆえ、私は待ち望む。(哀歌三・二一)
 
記憶はしばしば失望の奴隷となる。気落ちしている人は、過去のあらゆる暗い思い出を心に浮かべて、現在の陰うつな状態を解釈する。こうして、荒布に包まれた記憶は、心にとって、毒草や苦よもぎを混ぜた杯となる。しかし、そのようにする必要はいささかもない。知恵は、記憶を慰めの天使にたやすく変えることができる。それは、左手に数えきれないほど陰うつな前兆をもっている、その同じ思い出が、右手で希望のしるしの富をもつように訓練されるからである。記憶は鉄の冠をいただく必要はなく、その額に星を散りばめた金の飾りをつけてもよいのである。
これはエレミヤの経験であった。冒頭の聖句の前の節によれば、記憶は彼に深刻な屈辱を感じさせた。「私のたましいは、ただこれを思い出して沈む。」しかし今この同じ記憶が、彼にいのちと慰めとを回復させた。「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。」両刃の剣のように、彼の記憶は、まず一方の刃をもって彼の高慢を殺し、次に他の刃をもって彼の絶望を殺した。原則として、もし私たちがさらに賢明に自分たちの記憶を訓練するならば、最暗黒の不幸の中においても、ただちに慰めのランプをともすマッチをすることができる。
信者に喜びを回復させるために、神が地上に新しいものを創造される必要はいささかもない。もし彼らが、祈りをもって過去の灰をかきたてるなら、現在への光を見いだすであろう。そしてもし真理の書と恵みの御座に帰るならば、彼らのともしびはたちまち以前のように輝くであろう。私たちはいつくしみ深い主を回想し、彼の恵みのみわざを復習するようにしたい。あわれみの思い出に豊かに輝く記憶の書を開こうではないか。私たちはただちに幸福になるであろう。
記憶は、コールリッジが言ったように、「胸の中の喜びの泉」である。さらに助け主なる神がそれを用いられる時、それは地上の慰めのうち随一のものとなるであろう。
 
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「わたしの思いは、 | トップ | 5月28日(土)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

聖書」カテゴリの最新記事