江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2014年2月9日)

2014-02-09 13:24:12 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)       2014.2,9

      「振り返ればそこにあなたがいた」 創世記19:16~29

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。昨日から雪が降り続き、日曜日の礼拝においでになれるのかと心配しておりました。昨日から心も体も、いろいろな事を考えて準備しておいでになられた方々もおられるでしょう。ようこそおいで下さいました。また、家族の協力や誰かの助けで来られたという方々もおられることでしょう。教会に行く方法がないので、どうもこうも仕方がないと今、ユーストリームで礼拝をしておられる方々もおられることでしょう。画面を通しての礼拝はいかがでしょうか。これもれっきとした礼拝です。ちゃんと礼拝を守っているということを自覚して、心からの礼拝をおささげ下さいね。また、今日は大雪のために礼拝に出席できなかった方々もおられるはずです。その場で、イエス様を見上げ、そこが礼拝の場所であることを感謝して、主を礼拝していただいているのだと信じます。

 私たちは、なにはともあれ、こうして会堂で礼拝をささげることができることを心から感謝しながら、イエス様を礼拝したいと思うのです。

 先週は、関東地区の教職セミナーの後、伝道委員会の専門委員会を持ちました。今年の11月に予定しています伝道委員会主催のナザレン伝道フェスタと題して、信徒教職共に礼拝や宣教についての学び、礼拝の体験をと考えており、講師には多摩カトリック教会の晴佐久神父、JTJ宣教神学校学長の横山英実師を迎えるので、お二人の先生にお会いしてお話しするのが目的でした。晴佐久神父は、4名の伝道専門委員を見て、天使たちが来られたと言って下さいました。私たちは、4名でよく晴佐久神父を訪問したり、お会いしているので、そのように言って下さいました。今回は、晴佐久神父のリビング、ご自分が物を書いたり、食事したりする生活の場に招いて下さり、随分私たちを受け入れて下さっているのだと感じました。

 せっせとお一人で、コーヒーを入れて下さったり、いろいろなお菓子の準備をして歓迎して下さいました。本当に、良き交わりができました。カトリック、プロテスタントを越えた、イエス様に深く豊かな交わりがそこにありました。

 また、JTJ宣教神学校に行き、横山先生とお交わりしました。謙遜で、腰の低い先生で、先生の牧師としてのお働きやその思いや姿勢を聞かせていただき、本当に期待できることを確信しました。お昼をホテルでごちそうになり、良き交わりが与えられました。

金曜日は、横山先生の礼拝学の講義があると聞きましたので、早速金曜日の夜の3コマの講義を受けてきましたが、本当に素晴らしい講義で多くの事を教えられ、大いに励まされました。岩淵兄は、2年間JTJ宣教神学校で学ばれ、このような先生から多くの教えと恵みを受けられたのだなあとうらやましく思いました。

 11月のナザレン宣教フェスタは、会場は我らが青葉台教会ですので、ぜひ皆さんには参加していただきたいと思います。

 さて、今日は創世記19章16節から29節を通して、「振り返ればあなたがそこにいた」という題で、ロトとその家族についてお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、マイナスを経験しても大丈夫

 先週、アブラハムがソドムとゴモラの町のためにとりなしのお祈りをして、「正しい人が10人いたら滅ぼすのですか」という問いに、神様は、「その10人のためにわたしは滅ぼさない。」と語られました。御使いはソドムの町に向かい、アブラハムの甥のロトが彼らを迎えました。アブラハムが一生懸命にとりなしたのは甥のロトがソドムにいたからだとも考えられます。身内の住んでいるソドムの町のためにアブラハムは祈ったのでしょう

 けれども、ソドムの町には10人の正しい人はおりませんでした。ソドムの人々は、ロトの迎えた御使いを渡せと詰め寄り、御使いは老若男女を問わず、目つぶしを食らわせたと記しています。そして、ロトに、「実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」(19:13)と神のご意志を伝えたのです。

 そして、ロトの娘たちが嫁いだ婿の所へ行って、「ここから逃げるように。主がこの町を滅ぼされるから」と伝えましたが、婿たちはそれが冗談だと思い信じませんでした。

 ですから、御使いは15節にあるように、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」と神のご意志を伝えました。

 けれども、ロト自身もその御使いの言葉、神様のご意志を心から信じることができませんでした。長年ソドムの町で暮らし、そこで得た財産や地位などに未練があったのかも知れません。

 ロトはかつてアブラハムと一緒に生活していました。アブラハムと共にいることが神様の祝福を体験できると感じていたのでしょう。けれども、二人の財産が多すぎてアブラハムとロトは違う道を選択することになりました。アブラハムは自分が叔父であるし年上なので、自分が先に進むべき道や土地を選択することが出来ましたが、甥のロトに先に選ぶことをゆずりました。ロトは、目に見える事柄を優先しました。聖書は、「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。」(創世記13:10~11)とあります。

 ロトは自分の目で見た場所、良いと思われる土地を選びました。しかし、その土地は悪で満ちていたのでした。その結果が、今回の神様の裁きであったのです。

 私たちは、当然自分の思った通りの判断も大切です。経験や努力も大事です。しかし、全てのことを支配して導いておられる神様の導きも忘れてはならないのです。神様に聞いて、導いていただいて判断することは、私たちにとって大切な事です。ですから、日々ディボーションを通して、聖書のみ言葉を読んで黙想して示される神様のお心を大切にしたいと思うのです。

 ロトに道を譲り、必ず神様が最善に導いて下さると信じたアブラハムに神様は答えられました。「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」」(創世記13:14~17)

 損をした。悪いクジをひいたと思うようなことを経験しても大丈夫、神様は私たちが驚くような恵みと祝福を用意しておられるのです。神様を信頼しましょう。

 

 二、強いられた嫌なことの中に恵みがある

 ロトは、人間的な経験や思いが先行して神様の言葉を受け入れられませんでした。ですから、神様は強制的に、御使いたちにロトとロトの妻と娘達の手を取らせて町の外へ避難するようにさせられたのです。

 私たちは、自由を好みます。何でも自分のしたいようにするのが私たちです。子どもたちを見ていると宿題はなかなかできません。好きなようにさせていると宿題よりもテレビやゲーム、コンピューターばかりをしてしまいます。ですから、お母さんは強制的に勉強させるのです。それが親の愛でしょう。神様は、ロトが躊躇しているので強制的に連れ出しました。そのことを聖書は、「主は憐れんで」と表現しています。強制的なことが神様の憐れみだったのです。リビングバイブルには、「それでもまだ、ロトがぐずぐずしているので、御使いはロト夫婦と二人の娘の手を取り、町の外の安全な場所へせきたてました。神様はほんとうに思いやりのある方だからです。」とあります。

 榎本保郎先生は、旧約聖書一日一章で次のように書いておられました。「手を取って連れ出し、町の外におかれる、ということはロトや彼の家族にとって必ずしも喜びではなかったことであろう。人間だれにとっても強制されるということはいやなことである。信仰生活においても、できれば自分の自由意志で信仰生活をしたいと願う。自分の都合のよいときに、自分の気持ちの熟したときにと願う者である。「今はそっとしておいてください。そのうちにまた気が進むようになったら、自分から求めていきますから」、私たちはよくこんな言葉を耳にすることがある。しかし、ロトとその家族が主に手を取られて連れ出されることなしにみ言葉に従い得なかったように、私たちも助け主なる主の強制なくして、決して十字架を負うことはできないのではなかろうか。」

最後にこうも語っておられます。「創世記の筆者は、ロトの受けた強制、束縛を主の憐れみであったと記して、み言葉の迫りからたえず自由な余地を残しておこうとする私たちの信仰の奥義がなんであるかを示してくれている。み言葉にためらうことが悪いのではない。それは誰もが持つ思いである。ただそこに立たず、まず神の力強いみ手のうちに身をゆだね、そこから出させていただくことこそ大切なのである。教会生活の意義はここにある。」

 私たちは、自分の人生なんだからと、自分の思いや考えのみを優先して物事を進めることがあります。そして、聖書の言葉に従えないことも多くあるかも知れません。弱い私たちだから、先のことが見えない、わからない私たちだから、何が善であるのかを知りません。知っておられるのは神様だけです。ですから、神様はわからない、知らない私たちに強制されることがあるのです。無理やりにもその権威と力で私たちを導かれることがあります。それは、ロトと同じように自分の意志ではないので、嫌な思いをしたり辛い事だったりするのです。

 もしかしたら、私たちは今自分が置かれている場所や、経験している事柄は、必ずしも自分の思いや願いではないものかも知れません。自分にとっては嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、痛いことかも知れません。でも、それは神様の憐れみのゆえであると聖書は語るのです。神様は最善なお方です。今のあなたの苦しみや悲しみ、痛みは無駄に、無責任に与えられているのではありません。必ず、神様のみ業がそこに現わされるのです。イエス様は宣言されました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

 

 三、

 皆さんと共に17節を共に読みましょう。「彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」」ロトは山に逃げるように言われますが、それはできないのでツォアルという町に逃げることを願い許されました。

御使いは、「後ろを振り返ってはいけない。」と言いました。

 共に26節を共に読みましょう。「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」

チェーンバイブルという聖書には、この26節の説明がありました。「振り返った」というのが、「残してきた物、残してきた生活を惜しむ気持ちが、御使いの禁令(後ろを振り返ってはいけない。)を犯させることになった。」

 大爆音、硫黄が振る。その物音が気になったロトの妻は振り返ってはいけないという言葉を聞けずに、塩の柱になったのです。イスラエル旅行に行くと、あそこに見えるのが

ロトの妻の姿、塩の柱ですと説明があります。本当に女性の姿のように見えました。ロトの妻は後ろを振り向いて、神様の言葉に従えなかったので裁かれました。私たちは、裁かれないように神様の言葉に従いましょう、ということを言いたい箇所ではないと思います。 

 勿論イエス様も次のような事を言われたことがありました。「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:32~33) ロトの妻を思い出せと言われました。自分の事しか考えなかった。自分の蓄えたアクセサリーや洋服、お金等、後ろ髪をひかれるような大切なものがあったでしょう。それが気になった。それは、私たちもあることでしょう。

 神様の言葉に従えなかったということがあるでしょう。1度や2度ではない。何度もあるでしょう。自分の思いを優先し振り返ったこともあるでしょう。けれども、私たちは裁かれないのです。なぜならば、イエス様が私たちのさばきをご自分が十字架の上で受けて下さったからです。私たちが罪の故に、本来受けるべき罰をイエス様が十字架で身代わりに受けて下さったのです。私たちに代わってご自分の血を流し、その命を捨てて下さったのです。死んで葬られましたが、三日目に復活されたのです。そのことによって、私たちの罪、過去、現在、未来の罪でさえも赦されました、と宣言されたのです。そして、私たちは死では終わらない復活の命、永遠の命をいただいたのです。

 私たちは、ロトの妻にならないように頑張って、緊張して信仰生活を生きる必要はないのです。イエス様の十字架と復活の故に、私たちは裁かれないのです。

 

 Ⅲ結論部

 今年のイースターは4月20日ですが、その時の聖書箇所はヨハネによる福音書20章を選んでいます。そこはマグダラのマリアとイエス様との話しです。マリアはイエス様の死んだ体に香油を塗りに来たけれども、イエス様の体が見当たらない。だから、マリアは泣いていたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」という天使たちの声に振り向くと、そこにイエス様が立っておられたのです。しかし、それがイエス様だとは分からなかったのです。ここにはマリアは振り向いたとあります。

 ロトの妻は振り向いて塩の柱になりました。そして、マグダラのマリアが振り向くとそこに復活されたイエス様が立っておられたのです。

 イエス様は、十字架と復活を通して、のろいを祝福に変えて下さったのです。私たちは、呪いじゃないのかと思われるような出来事を経験することがあるでしょう。悲惨な人間関係も経験するでしょう。しかし、あなたの背後にはイエス様がおられるのです。泣きながら、絶望の中で振り向いたマリアの前にはイエス様が立っておられたのです。

 今、悲しみの中に置かれていますか。絶望でいっぱいですか。信じられないような苦しみがありますか。大丈夫です。あなたの後ろにはイエス様がおられます。あなたのために血を流し、命を投げ出されたイエス様がいつもあなたと共におられるのです。心配はいりません。イエス様があなたを支え、あなたを必ず助けて下さいますから。

 この週も、私たちがどのような立場にあろうとも、罪を犯す者であっても、イエス様の愛と恵みは、あなたの上に注がれているのです。我慢して、頑張って信仰を勝ち取るのではありません。すでに勝利者なるイエス様があなたの後ろ盾になっていて下さるのです。だから、安心して、大丈夫の神様に全てをお任せして、この週も歩んでまいりましょう。

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