“性教育の伝道者”のTVデタラメ発言に反論する | 「ジェンダーフリー」ブッタギリ

“性教育の伝道者”のTVデタラメ発言に反論する

[About 性教育とマスコミ報道]

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「でもしか」先生という言葉がある。先生でもなろうか?先生にしかなれないという略である。

1960-70年ヘルメット、黒サングラス、マスクの3点セットで変装し、角材をふりまわし、ブイブイ言わせていた過激な左翼学生運動が日米安保闘争の終了と共に、下火になっていった。

過激派学生達のリストは、公安の手により大企業にまわった。そんな彼らは、まさしく、「先生でもなろうか?」だった。
彼らは、教育界、法曹界、マスコミ界に流れついた。

30年前の夢を未だに、捨てれない輩が多いようである。マスコミ、法曹界、教育界の連携がうまく見えるのは、気のせいではない。

以下は、現役の中学教諭の論文である。教育現場の実態、推進派の実名、マスコミがもてはやす「自己決定論」と「過激性教育」及び、「ジェンダーフリー」の関係が強調されている。
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“性教育の伝道者”のTVデタラメ発言に反論する

神奈川県平塚市立中学校教諭 野牧雅子




「過激性教育をしていない」という仰天発言


 五月一日、フジテレビ系列で放送された『報道2001』で、学校での性教育が取り上げられた。小学校低学年で性器や性交の仕組みを教えたり、中学生にコンドームの使用方法を教えたりしている現在の性教育の過激さや問題点について本誌は早くから指摘してきたが、最近では週刊誌などでも取り上げられ、国会でも小泉純一郎首相が疑義を呈するなど、社会問題化している。

 番組には、性教育の民間研究団体「“人間と性”教育研究協議会(性教協)」から浅井春夫、村瀬幸浩両代表幹事と熊本県内の小学校教諭、入江彰信氏、さらに過激な性教育を批判している高崎経済大学助教授、八木秀次、参議院議員、山谷えり子の両氏が出演、賛否両論を述べ合った。私の印象では、「過激」性教育推進側の浅井・村瀬組が果敢に発言、ずうっと喋り続け、良識派八木・山谷組の発言時間がすごく少なかった。浅井・村瀬組は、「私たちは過激性教育をしていない」と主張し続けた。「私たち」とは、性教協の幹部及び全国の多くの加盟員を指すのであろう。性教協の資料にこれでもかこれでもかと出てくる《性器付き人形》《性器模型》《布製性器エプロン》《裸体図》《性交時性器挿入図》を見ると、思わず背筋がゾーッとする。番組では何をもって「過激」とするか定義されなかったが、これらのグッズなどが「過激」でないとしたら、私には「変態的」という形容詞しか思い浮かばない

 なお、私が本稿で引用する性教協の会報や機関誌は同組織が公認・推奨しているものである。


コンドーム訓練を必然とする「性の自己決定権」


 浅井氏は冒頭、「性器付き人形を使った授業は昭和六十三年から行っている」「過激と批判するなら各学校で議論すればよく、子供らの『自分はどうして生まれてきたの』という疑問に答える実践をして何が悪い」という主旨の話をした。

 確かに性教協の教師たちは「自分を知る。人間を知る」ことを目標の一つとして性教育を行っているが、彼らの最大の優先課題は、子供の「性の自己決定権」とその行使能力を育成することである。「性の自己決定権」の行使には、望まない妊娠をしない、性病に感染しない、合意の上での行為であることが必要である。そして、これらの条件を満たす「良いセックス」をするため、コンドーム装着訓練を子供らに施しているのである。ことに及んで「ねえ、つけて」と相手に言えることも「能力」として評価されるらしい。「良いセックスとはどういうものですか」と中学生に問う教師もいるほどである。

 だから、彼らの理屈では、エイズ・性感染症対策としての性教育も「自己決定能力」育成の一つとなり、コンドーム訓練が必然となってしまうのである。例えば村瀬氏は性教協機関紙『季刊SEXUALITY』9号(エイデル社、二〇〇三年一月)の鼎談「思春期の性と自己決定」で、「たとえば外国のように学校に自動販売機を設置することだって考える必要が生ずるだろうし、地域の力で工夫することも大切になってくると思う」「たとえば生徒がコンドームを持っていることがわかった時に『いい心掛けしてるね』と思うのか、『何だ、こんなもの持ってて』と叱るのかというちがいでしょう」と発言している。

 しかしセックスをしなければ性感染症には罹らない。感染症対策の為の教育ならば、結婚までの純潔を奨励するはずである。私たち良識派は、子供に性の自己決定資格はないと考える。出演者らにはこの辺りの論議をもっと深めて欲しかった。


親子関係にも楔を打ち込む「ふれあいの性」教育


 彼らは「自己決定」に付随して、「ふれあいの性」なるものも教えている。「セックスは素晴らしい」「究極の触れ合い」などと言いながら小学生に性交を教える。浅井氏は性教協会報「“人間と性”No184」において、「性教育のセカンドステージは科学・人権・自立・共生の視点からマイノリティ・多様な性に踏み込み、ふれあいの性・コミュニケーションの性に関する実践的展開が行われた時期と言えます」「第三として(サードステージの=野牧注)性的自己決定能力の形成の課題が人生案内として性教育に問われています」と書いている。

「SEXUALITY」6号で入江教諭は、六年生の男子児童の作文を取り上げている。児童が両親に、《自分は二人兄妹なので性交を二回したの?》と聞いたら、《父親が顔を赤くして困っていた》とし、「僕はお父さんがなんでごまかしているのかと不思議に思った」という内容だ。性器や性交に関する子供の興味に、大人が応えていないというわけである。

 入江教諭はこんなことも書いている。「自分を性的な存在として見つめはじめるこの時期の子供には性の『主体』者としての学習が必要になります。性的なふれあい(性交)は単なる生殖のためだけでなく、相互のコミュニケーションとして人間関係の課題であることを理解させます」。お父さんとお母さんは子作りだけでなく、ふれあいの性交もしているんだよ、というわけだ。児童が親にこのような質問をするのは、入江教諭の日頃の指導の影響が強いからであろう。親にこんな質問をするよう児童をけしかけるのは、尊い親子関係への冒涜であり破壊である。児童は良識のある父親なら当然抱く困惑や羞恥心を、「ごまかし」と受け取っている。入江教諭は父子の関係に楔を打ち込んだのだ。

 なお、「性の自己決定権」とは、主に性行為の自己決定権を指すのだが、「男であるか女であるか」「産むか産まないか」「結婚するかしないか」を「自己決定」の対象に含める人もいる。

 子供は教えなくとも性に興味があるのに、ふれあいの性、それはとっても幸せな気持ち、自己決定が大切、と教室で教えられれば大いに行使したくなり、頭にスイッチがポンと入れば年齢は関係ない。推進者達は世の中に性情報が溢れているので、現実に合わせて「正しい知識」を教えるのだと言う。しかし、「正しい知識」で子供が自主的に性行為を慎んだりするものか。TVゲームは一日に一時間程度にしないと目に悪いと「正しい知識」を教えても、多くの子供は守れない。

 大人にとっても、完全なる性の自己決定資格などないのではないか。良識、伝統や文化といった、個人を超越した見えない糸が人の生き方や社会を支えているのだ。個々人の自己決定では計り知れない価値もある。例えば子供。だれも実際に産むまでは子供がこれほど幸福を与えてくれるものだとは実感できない。産んで初めて分る。だから、自己決定だけだと産まないで気楽に暮らし続ける若者が多くなるというものだ。大人になったら子供を産む、産むのに適切な時期と環境が必要、社会はそれを前提として支援していく、これで良いのだ。

これは「過激」でないのか


 さて、現場の実践はどうか。小学校低学年では性器の学習を熱心にする。絵や図のプリントが児童に配布され、性器名称を連呼する。東京都立七生養護学校の「からだうた」は性器名称入りで物議を醸した。性教協の資料には「外性器理解の歌」があり、「おやおや何だか長くてやわらかいぞ ペニスって言うんだよ」という歌詞がある。入江教諭の実践報告では授業の導入に手遊びゲームがあり、「パン、パン、おっぱい、パン、パン、おしり、パン、パン、ワギナ、パン、パン、ペニス」という歌詞が紹介されている。

 小泉首相が国会で「これはひどい」と驚いたのは、横浜市立今宿小学校で三年生に配布された《性交時性器挿入図》で、村瀬氏ら性教協関係者が作成に加わっている絵本を元にしたものだ。あれを村瀬氏は過激ではないと考えているらしい。性交や性器が描いてある副読本、絵本はたくさんあり、保健室、図書室等に置かれ、村瀬氏他、性教協幹事や関係者の名前はお馴染みとなっている。

 人形を使う実践も多い。等身大の性器付き人形を使って子供に挿入させる▽一対の人形を生徒に廻して性行為の形にさせる▽手作り人形やキューピー人形で性器の位置を確認させる▽保育園児がオムツを当てて遊んだりするために性器付き人形を置いておく-など。生理指導として男女児童に、性器付き人形にナプキンを当てさせ、女子トイレに引率し、エチケットボックスを見せたり、助産婦が出前授業で人形を使って出産劇をし、臍のうを切る儀式を子供にさせたりといった報告もある。

 入江氏も小学校低学年を対象にして等身大のお母さん人形、花子さんを使っての出産授業を「SEXUALITY」10号(二〇〇三年四月)に執筆している。子供達はワギナから出てくる赤ちゃんの頭をじっと見つめていたそうだ。帝王切開にも触れたと言う。末尾に授業に対する保護者の感謝と賛同の手紙が紹介されていた。なお、浅井・村瀬氏らは番組で「赤ちゃん人形云々」と言っていたが、横には等身大の花子さんを操る人形使いの教師がいたのだ。

「保護者との連携」のナゾ


 入江氏は番組で、性教育に際しては事前に保護者に内容を提示し、支持を得ていると言っていた。実際、推進派教師らは他の教師、保護者との連携を大切にしようとしている。授業参観で性交や出産の授業をする教師もいる。「授業参観したら親って文句を言わないわよ」と語る教師もいた。一般にも性教協スタイルの実践を支持する人としない人がいるので、保護者の中にも賛否両論あるに違いない。

 ただ、これまでの私の調査では、保護者に性教育を知らせるプリントには項目だけ書いてあるだけで、具体的内容が分らないものが多い。人形を使ったのにそのことが書いてないものもあった。保護者が不審に思って「指導案を見せて欲しい」「教材を見せて欲しい」と頼むと、学校側は頑なに断る。授業参観で性教育授業をしても、批判を受けたとたんに態度が硬直し、指導案、教材、配布プリントなど、保護者が要求すれは当然見せるべきものまで徹底的に隠す。浅井氏は議論するべきと言っていたが、私の印象では、議論をしたり保護者の気持ちを聞いたりするというよりは、「心と体の学習だ」「科学的知識だ」と言って保護者を丸め込もうとしているように思える。「科学的」とは笑止千万。シモの話に変わりない。「科学的」であろうとなかろうと、子供にとってはエッチな話であり、心に衝撃を受けた彼らは羞恥心が破壊され、異性へのときめきを失う。

「保護者と勉強会をする」という推進派教師もいるが、彼らの性教育はイデオロギーが混ざったものである。学校長はこの事を知っているのか。学校運営の中で「勉強会」はどのような位置にあるのか。「勉強会」に勧誘するのは、教師の地位を利用した行為ではないのか。

 また、保護者は教師にはモノが言いにくい。子供は教師の望むような答を出したり、発言をしたりする。保護者の支持があるという推進派の報告にはこのような背景ある。怒りを訴える保護者、訴えたくとも教師に言えない保護者は多い。訴えても聞いてもらえず、子供を転校させた保護者もいる。

 ただ、推進派達は市教委や学校を性教育に巻き込むのがうまい。市教委で性教育の手引きを作ったりしているのは、そのためである。一口に議論といってもそのような行政的背景があるので、一保護者では対等に話ができない。

コンドームはそんなに有効か


 番組中、山谷氏が有名なウガンダのABC作戦の話を出した。A(結婚まで禁欲)、B(一人の相手に誠実)、C(セックスするならコンドーム)。大統領が指導力を発揮して、これを推進したらHIV(エイズウイルス)感染が減ったという政策である。番組で性教協組は、その時は一時的に減ったが後では効果がないという結果が出た、とデータを読み上げた。

 浅井氏が編集長を務める「SEXUALITY」18号では、ウガンダ大統領の実践は大きな効果があったと紹介する報告が掲載されている。ただ、この報告書にはABC作戦をめぐってアメリカで支持派と疑問視派の討論会があったことも紹介されている。アメリカにも禁欲よりコンドームを重視する人達がいるらしい。この報告者も禁欲を最重要視することに批判的な立場を取っている。

 推進派教師たちはとにかくコンドーム教育に熱心だ。神奈川県には《コンドームの達人》を名乗り、使用法と重要性を説いて学校を廻る医師がいる。彼の作った男性器模型の名前は《チャンピオン君》。ラップの芯と紙粘土で男性器模型を作り生徒に渡し、二人ペアで練習をさせる、などは序の口。岐阜県の渡辺武子教諭は中学校障害児学級の実践で、バンドエイドやサランラップを装着させた後、「サック」を実際にトイレで装着させたという。勃起しないと難しいことも少し話し、何々君だけ成功した、などと書いてあった(「性と生の教育」一九九九年九月号)。

「SEXUALITY」7号の鼎談での村瀬氏発言を紹介する。オーラルセックスによってもHIV感染するということが話題になった箇所だ。


 村瀬…それでいうとオーラル用のコンドームなんかもあるようですね。

 内野(註・長野県木曽保健所、内野英幸氏)…その場合、ペニスと口ということになります。でも、クンニリングスもオーラルセックスで、これについても(感染を)防ぐ手だてはありません。

 村瀬…女性性器にラップなどを当てると言ってもなかなか…。


 だから推進派は「正しい知識」を、というわけであろうが、現実の学校でオーラルセックスの話などしたら大騒ぎになり、他の授業にも影響する。児童生徒がこれを思い出して長期間、授業時間にさえ私語、含み笑い、落書きをするに違いない。コンドーム練習やオーラルセックスの話は、学校より風俗街で扱ったらどうか。

 京都府公立中学校理科教諭、新井保氏のすごい報告もある。「セックス時の心と行動の再確認シート」を男女中学生に配布する。男性用と女性用があるが、内容はほぼ同じ。「彼がフェラとかしてって言うんだけど、あまりしたくないなぁ A我慢してしてあげる B彼って下手くそ、ってちょっとムカつくかも Cもっとどうすればいいかこれから二人工夫したりしなくちゃ」。このような問題と選択肢が五組ある。各自がA・B・Cのどれに〇をつけたか手を上げさせ、数を数える。ABCには点数がついていて、「言いなり派」「流され派」などと分類する。これをもとに授業を発展させ、「ゴム無しセックスを求められてもNOと言えるように訓練する」のだが、《外出し》《フェラ》《ゴム無し》などの用語が登場、二の句の継げない報告だ(「SEXUALITY」15号)。

 これほどまで訓練をしても、コンドームでは予防の効果を期待できない感染症があると言う。福島県医師会報第65巻第11号(平成十五年十一月)に掲載された富永国比古医師の論文にアメリカの調査結果が報告されている。「一年間にわたる『コンドーム使用』に関する観察研究によれば、失敗率は22・5%もあり、しかも、毎回きちんと使用している者は20%に過ぎなかった」「米国国立癌研究所は、(子宮頸癌の原因の九五%を占めると言われる)ヒトパピローマウイルスに対して、コンドームの有効性は認められないという結論を出した」「最新のNHI(米国立衛生研究所)の報告によると、コンドームはHIV/エイズ感染予防に対しては85%有効であった。また、男性の淋菌感染にもコンドームは有効であると認められた。しかし、ヘルペス、クラミジアなどの性感染症に対して、コンドームが有効であるという疫学的証拠はなかった」。

 ヘルペスやクラミジアなど日本に蔓延する性感染症(STD)にもコンドームでは防げないものがあるのだ。特にヒトパピローマウイルス(HPV)感染は日本でも深刻な問題で、若い女子に大変多いと聞く。自己決定権を与え、コンドーム装着練習を熱心に行っても、学徒らの性行為が増えたら問題は解決しない。

 妊娠と病気を伴わずとも、子供に性の自己決定資格はない。性行為をする中学生の表情や精神は不健全であり、見ていて胸が痛む。良識に従って性は律せられるべきである。ひらたく言うと躾である。女子として男子としてのけじめや立ち居振る舞い、行動、心構え等を躾けるのだ。躾は、大人達の愛情、根気の上に成り立つ。ことに家族や学校による躾は大切だ。

純潔教育とは似て非なる「ノーセックス」教育


 番組で、浅井氏は「純潔教育というような形でノーセックスもある」と教えていると言っていた。しかし、彼女らは純潔教育、禁欲教育に対して批判的である。「SEXUALITY」10号で、性教協研究局長の金子由美子氏は、純潔教育を批判し次のように語っている。「純潔派は、恐ろしげなスライドで恐怖を植え付ける方法が主流だと思います。(略)セクシュアリティに関する学習の機会がないままに教職に就いて、性教育に取り組めば、『脅す、遠ざける』という安易なスタイルしか思い浮かびません。性教育を試みたことのある教員が陥りやすい『純潔』教育は、妊娠・中絶・性病などの不幸な症状や事例で脅し、それでも性に近づく子どもを責め、中退学などの処分をしていました。その結果、いつしか、子どもたちは、教員を信用しなくなり、学校の性教育力を見限り、ポルノ、性暴力、性犯罪から、性を学習してしまうことになったのです」。

 確かに、「SEXUALITY」20号の村瀬論文には、「ノーセックスが大切だとも高校生に言っている」と書いてある。私は村瀬氏の自宅に電話し、純潔教育やノーセックスの定義を聞いてみた。厳密には決めていないらしいが、一応のイメージは教えてもらった。ノーセックスとは、「二人が共に性体験を持っていない、検査を受けてお互い陰性であると確認されていない段階でのセックスはやめる」ということだという。これでは未経験者同士は結婚してもセックスできなくなってしまう。「検査を受けて陰性だったらセックスしても良いの?」と尋ねたら、そうは書いていないとのことであった。

 しかし、同書には高校教師の実践報告に「あなたは、いつ・だれと・どこで・どんなセックスをしますか?」という初体験をイメージする「エクササイズ」が書かれたワークシートがあり、ヒントとして、「高校を卒業したら」「恋人ができたら」「結婚したら」「今の恋人」「婚約した相手」「結婚した相手」「ホテル」「車の中」「勢いで快感をみたすセックス」などの選択肢が紹介されており、純潔を奨励しているとは言い難い。どこの高校でノーセックスが一番良いと言ったのかと聞いたら、プライベートだから教えられないとのことであった。


《男らしさ》《女らしさ》の定義


 番組のテーマは「ジェンダーフリー」にも及んだ。浅井氏が八木氏に、《男らしさ》の定義は何だと熱心に訊ねた。《男らしさ》《女らしさ》に「定義」などあるものか。定義とは、何かに先がけて約束事として予め決めておくものである。昔の人が予め決めておいて《男らしさ》《女らしさ》を心得としたわけではない。自然と暗黙の価値観が出来上がったのだ。これを人権主義者らは「隠れたカリキュラム」と悪意をもって呼んでいる。

 定義は広辞苑にも書かれていないが、人や国や文化によって多少の違いはあるものの、だいたいの共通理解は常識として存在する。例えば《男らしさ》については、「家族や国を守る」「責任を取る」「強い」「正々堂々」「リーダーシップ」など。一方、《女らしさ》は、「愛」「洞察力」「母性」「受容」「典雅」「神秘」…。「女」の追求は有史以来人類のテーマとなっている。女権主義者らは定義のない「らしさ」を持ち出してその「解放」を行政闘争とした。ところが、浅井氏が調査に書かれてあったとして読み上げたイメージは、《男らしさ》は「乱暴」「たよりになる」「冗談が上手い」「不良っぽい」、《女らしさ》は「可愛い」「おしゃべり」「我儘」と、否定的なイメージの特質が並ぶ。

「“男らしさ”からの解放」を特集した「SEXUALITY」2号に掲載されている村瀬氏らによる鼎談では最初にDVの話題がある。男らしさの一番の特徴は「暴力」であると捉えているらしい。それでも浅井氏はこの本の巻頭で、「“男らしさ”は生物学的本能論とセットで刷り込まれてきた歴史があります。そして男が最も男らしいのは、戦争という生命をかけて闘っている姿のなかに男らしさの極限を追求してきたといえます。それは最も加害者性をもった存在としてのセクシュアリティでもあります」と書いている(傍点野牧)。

《男らしさ》を加害性に故意に結び付けるのはフェミニストの特徴であるが、本来、男女双方の《らしさ》は、もっと高貴なものである。「《らしさ》からの解放」という合言葉のもとに、学校現場で《らしさ》を訓練されてこなかった若者は、高貴な《らしさ》をイメージできないのだ。女子が重い荷物を持っていても手伝わず、友人が苛められても助けない男子。短いスカートを穿き、股を開いて地べたに座る女子。男女関係を作る上でのノウハウさえ知らず、男が女を口説けなくなり、日本の若者はオール結婚難となった。

性教育が孕む家族制度破壊の危険性


 浅井・村瀬組は、「私たちは《らしさ》をなくそうとしているのではない」「なくそうとすることをジェンダーレスと言う」「自分たちは男女の垣根を低くするべきと考えている」と説明していた。「私たち」とは性教協かフェミニスト教師全体か、判然としないがここでは両方を見ていくことにする。

 推進者たちが男女を同席させて性教育をするのは、男女が互いの気持ちを知るという理由もあるが、ジェンダーフリー思想教育の一環である。彼らの資料には、人形に生理ナプキンを男子も当てる▽注射器が仕込まれた男性器模型から白い液が出るのを見る▽パソコンをクリックすると性交図や出産図が画面に出てそれを男女一緒に勉強する-といった内容も紹介されている。

 性教協関係の資料には、他に、性差を扱う授業のパターンとして、胎児の性器図を子供に示し、最初は男女同じ形だよ、それがだんだん男女に分かれたんだよと説明する-というものがある。その時、「男性器のこの部分が女性器のここ」と、細部の名称まで詳細に教える人もいる。そして、「元は男も女も同じだよ」と、「同じ」ことを強調する。「元はみんな女だったんだよ」とそれとなく女性が優位であることを示す人もいる。男女児童一対の裸体図の各部に名称を書くワークシートには、男女の顔と髪型が全く同じで文字通り性器のみ違うという無言の配慮がなされている。中には子供に性器を作らせよう、という呼びかけもある。男女の性器が似ているということが理解できるのだそうだ。

 推進派教師の中には、第二次性徴の初経指導において、「お母さんになるんだよ」などと母性を強調することをしないように心掛けている人もいる。「違いは性器のみ」という説が科学的かどうかは別問題として、これでは私たち人間はただのDNAだ。

 推進派教師たちは、性差が少ないことに価値を置くため、同性愛やインターセックスも扱う。女装をした男性や性転換をした人を学校に招いて人権講演会をし、児童生徒に聞かせもしている。児童を町に連れて行き、公園などのトイレを幾つも見させて点検させ、教室に戻った児童に東京ウィメンズプラザの「女性・男性を問わずご利用いただけます」と書かれたトイレの標識の写真を見せ、同性愛、インターセックス、性転換、女装、戸籍問題の話をした、という報告も読んだ。

 エイズ指導で同性愛を扱うこともある。私が受けた性教協神奈川サークルの模擬授業で、鎌倉市の養護教諭が「『肛門も性器の一部です』と最初から教えておくと良い」と言っていたのには驚いた。このサークルの勉強会の後に女性の集まりらしく、メンバーの誰かがお菓子を出した。コンドームの形をしたグミキャンディあった。このサークルに入会する時もらったパンフレットに「現在までにとりくんだテーマは…」という見出しがあり、その一つとして「結婚制度からの解放」と書かれていた。

 同性愛教育は、家族破壊に結びつく。「同性同士の結婚も正常なもので、それを認めない日本の戸籍制度は差別的である。色々な家族像がある」と教え、男女と子供からなる伝統的家族像に“囚われ”ないように誘導する。同性愛カップル、シングルマザー、気の合った友達同士の集まりなどの絵を「家族」として見せる。同性愛者、女装男性、性転換した人のビデオを見せ、感想を書かせ、アンケートを取ったりする指導法もある。離婚を扱う授業もあり、同居や血縁ばかりが家族の条件ではないと誘導する。村瀬氏も「SEXUALITY」15号で家族について、「育て育てられるさまざまな形の家族。育て育てられる相互関係の中で創造される人間の理解への学習の場。社会諸矛盾の吹き溜まり。育て合うもの、そしてやがて解体・再編するもの」(傍点野牧)と示している。

 繰り返すが、浅井・村瀬両氏は番組で過激な性教育などしていないとまことしやかに発言した。「フェラ」や性交図、性交人形、性器模型を使ったり、同性愛を扱ったりする教育は、彼らにとって過激ではないのだ。性教協の“使徒”らが行った模擬授業や実際の授業を、写真、絵、指導案、性器模型、ビデオ、人形、コンドーム、生理用品、人権講演の録音などをもって具体的に取り上げて検証し、過激か、変態的か、順当か、多くの人々によって判断されなくてならない。私は、感染症に罹らずとも、子供は性行為するべきではないと考える。子供が性行為をできない状況を整えるのは大人の役目であり、それは有史以来、先達が残した叡智なのだ。
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from Web版「正論」

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