非指示教育 | 「ジェンダーフリー」ブッタギリ

非指示教育

現在の日本の性教育は、1960年代に米国で普及した「非指示教育」が基本にある。「非指示教育」とは、大人が善悪を子供に教えるべきでないという、道徳やしつけを完全に否定した「理想の人間=オラウータン」というルソーの思想の流れを組んだ教育である。


米国では、この「非指示教育」がカウンセリングという形で広がり、話を聞くだけで、正しい方向性へ導かず、あとは「自己決定」で、という無責任きわまりない教育が横行した。しつけを受けない子供がどうして自分で「自己決定」できるだろうか? 以下の内容は、そんな危険な米国の「輸出品」に警告をするボストン・カレッジ教授のウィリアム・キルパトリックの論文の一部である。

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「米国道徳教育の失敗と人格教育の新しい試み」 ボストン・カレッジ教授 ウィリアム・キルパトリック


>危険な米国の「輸出品」


米国の教育は1960年代において長い回り道をした。むしろ、袋小路に入ってしまったといってもいい。現在、私たちはそれを「本流」に戻そうと努力している。ここでいう本流とは、道徳教育における「人格教育」というアプローチである。 この方法論は、子供に対して模範を強調し、良い行動習慣を身につけるよう奨励する。良い行いとは何であり、また悪い行いとは何かについて、直接に子供たちに話す。


そして学校環境やエートス(学校の校風)を作り上げることも必要で、校則、衣服に関する校規、表彰・報奨金制度、学校や地域社会に対する奉仕活動などに関心を向けさせる。そうすることで、子供たちは自分たちにとっても、また社会にとっても良いといわれる習慣を覚え行動するようになっていく。


1960年代において、米国の教育者たちは、人格の形成という非常に困難な仕事に対して、今述べた方法とは違う別の方法を発見したと考えた。私はこれを「自己決定」(Decision-Making)の方法と呼んでいる。しかし、結果的には、彼らの方法による教育は、子供たちの道徳性を希薄化したにすぎない。


まず、彼らの方法論に焦点を当て、なぜそれが有害であるかを検証したい。これは日本にとって、かなり有益であろうと思う。というのは、米国で失敗した道徳教育が、諸外国に輸出される可能性が高いからである。私が各国を視察して驚くのは、諸外国の教育者たちが、米国教育における最も良くない部分を熱心に取り入れていることである。


「自己決定」の方法論は、現在の米国では1960年代に失敗した単なる一つの流行だったと非難されているが、諸外国に対しては、最新の方法として紹介されている。これは、実際には大きな害をもたらす可能性をもった時代遅れの方法で、厳密に点検されなければならない米国からの「輸出品」なのである。 >レイプを容認する子供たち   どのような害がもたらされたのか、一例をあげてみよう。


数年前、ロードアイランド州にある「レイプ・クライシス・センター」が、全国の6年生から9年生1,700名に対して、レイプに対する意識調査を実施した。この調査結果を見て驚いたのは、調査した男子の65%が「レイプは一定状況下においては容認できる」と考えていたことである。その「一定状況」の一つは、男性が女性を誘って20ドルくらいのお金を使うような場合である。また、もう一つ驚いた点は、多くの女子がやはり「レイプは特定状況下においては容認できる」としていたことである。


この調査結果に対して、「なぜ、学校で価値観教育をしないのか」、あるいは「性教育をしないのか」といった疑問が上がった。それに対する回答は、「もちろん、そういう教科はある」で、確かに過去20年にわたって、こうした教育課程は急増している。また近年、価値観教育、性教育に対して、膨大な予算と人材が投入されてきた。そこで、こうしたプログラムが、現実に解決すべき諸問題に対して本当に有効なのかどうか、疑問が呈されたのである。


「なぜ、善悪を見極めることができないのだろうか」。善悪の違いについて、私たちが十分教えていないからともいえる。あるいは、その代わりに「実験的方法」(子供自身に道徳性を確立させようとする実験)に頼っているからともいえる。この実験はさまざまな名称で進められている。


例えば、「価値の明確化」(教師が価値を教えるのではなく、生徒が自分の価値観を明確にできるよう助けるという手法)「道徳の理論化」「自己決定」「批判的思考」あるいは「生活技術」などである。


名称は何であれ、それぞれの前提は同じで、「大人には何が善であり何が悪であるかということを語る権利はない」というものである。時にはそれが一つの教育課程となり、また性教育や麻薬教育の一つの戦略となっている。そして、自己決定の方法が、米国の学校教育における道徳教育の基調を作ってきているのである。


他の教育分野においては、このような自己決定の方法は使われていない。例えば学生たちに対して、登校するか否かの決定を彼ら自身に委ねるということはない。また、化学の授業において、何と何を混ぜてどのような化合物を作るかを彼ら自身に決定させるわけではない。もしそのようなことをすれば、まさに「爆発的」な結果になってしまいかねないからである。 道徳教育における実験の結果も、爆発的なものであった。子供たちが大人の指導なしに、自ら「道徳性」の基準を作り上げてしまうとどうなるかは、火を見るよりも明らかである。


1940年代から50年代において、教師たちは、子供がガムを噛んだり、廊下を走ることを気にかけていた。しかし、今日では、暴行や強盗、レイプの心配をしている。