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昨日記121023火 (21/13曇 アルバイト面接・履歴書と我が人生の一断面)

2012年10月25日 00時13分14秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日朝から、アルバイト用の履歴書書きで午前中かかった。
先ず、一昨日に履歴書を買いに行ったとき、履歴書にも正社員用とかアルバイト用とか分かれているのを知った。
そういえば、ギャラリー廃業後、履歴書を大量に書いていた悲しい思い出を、思い出した。
午後から、面接に行った。
結果はしばらくして、連絡があるという。


履歴書のことを書きながら、過去の履歴書や資料を見直し簡単に思い出をまとめてみた。
私はギャラリーを始める前、すなわち40歳になるまでは、工業高校卒業以来、理化学機器・環境試験装置の会社に約10年、農事用温暖機・家庭用石油ストーブ(会社は後日倒産)に約3年、食品機械の会社に約10年間すべて技術の開発設計関係で働き、最後は会社の技術部門を管理し開発計画も立てたりしていた。

最初の転職のときは、自分の技術や実績にも強い自信を持っていた。
(余談だが、工業高校卒業後最初に勤めた会社は、入社当時町工場であったが、その後東証一部企業になった。
その会社で、夜間の短大にも行き、非常にユニークな製品を開発していて、多くの最先端の技術を学んだ。)
その意味では、就職先がきまらなくても不安は無く、ある程度自分の意思で会社を選択出来た。
大企業に就職出来る機会もあったが、自分の力の発揮できる中小企業のほうが面白いと思って会社を選んだ。
最初に転職した会社は、元東大阪の大企業が倒産し再建した会社だったので、過去の技術的遺産もあって、資産は無くても、技術的内容が充実しているのではないかと思って入ったが、一年たって分かってきたことは、全く期待はずれで、内実はぼろぼろで、過去の技術資料等もなかった。
入社後、会社の業績は悪化し、私は約3年後退職したが、その後再びその会社は倒産し消滅した。
そのとき、私の技術的な経歴が少しマイナスになったと感じたが、まだ探せば面白い会社はあると思っていた。

2回目の転職のときも、それほどあせりは無かった。
自分の技術にもまだ自信はあったし、中小企業を何社か受験しても、手応えは充分だった。
2回目の転職の期間中、サラリーマン以外の外の世界を見たいと思って、いくつかアルバイトもした。
その中で、特に面白かったのは、遺跡の発掘作業だった。
石切近くの芝が丘中学校の遺跡調査だった。(この話長くなるので、後日)
発掘調査は、夏には終了したが、発掘調査で知り合った知人が、長原遺跡のアルバイトに誘ってくれたので、短期間だけ参加した。(長原遺跡調査会は、かなりレベルが高く、自発的な勉強会もあった。)
その後、考古学古代史関係の講演会等も知人から紹介されていくようになり、「古代を偲ぶ会」の前身の市民講座にも参加し、そのことが古代史考古学関係の趣味を持つきっかけとなった。
その後、考古学趣味の活動は失業期間中も続き、「東アジアの古代を考える会」?が主催し、京都で開催される「日本書紀を読む会」(上田正昭先生)にも参加した。
その頃は、失業中で時間があったので、日本書紀の予習にも熱をいれ、質問項目も用意するほどだった。
ところが就職が決まり、入社後だんだんと仕事が忙しくなったので、趣味を取るか仕事を取るかで悩んだが、発掘のアルバイトや偉い先生への弟子入りでは、将来の生活が不安なので趣味はあきらめた。
(そもそも先生に弟子入りして、研究の手伝いをするということを知らなかったし、想像も出来なかった。)

2回目の転職先の小企業では、技術力と経験を活かすことが出来、退社前には技術部門を統括するようになった。
40代になる直前、人事異動があって、技術を2分割し私が自分でどちらかのトップになる事を自分で選択するようにという話になった。
その頃、あまりにも会社の業務が多忙で、日曜日も会議があったり、夜遅くまで残業し会社の門を閉めて帰るというような、休み無く働くことが続いた。
その結果収入も増えて蓄えも出来たので、脱サラをして技術で自立したいと思うようになり会社を辞めた。
(その他、最初に勤めた会社の株を持っていたのも大きかった。<業績不振のときにその会社が、賞与を株で支払ったときがあった。その株が上場され高値をつけた。>)
その頃には、再び自分の技術と実績に自信を持っていた。
多分、客観的にみても、その気になれば、それなりの会社に転職できた可能性は強かったと思っている。

会社を辞める数ヶ月前から、今まで働きづめだったので、遊びもかねて1-2ヶ月の英語留学を考え調査し、最適と思われる留学プランを選んで手配をかけ、その後会社をやめる事を実行に移した。
(当時社会人の中年の男が、留学するというようなことは無かった。
因みに英語は話せない、聞き取れない状態で、片言の英語が話せる程度だった。
シカゴに行くのに、ロスから入国して、グレイハウンドバスで片言の不完全な英語を使いアメリカを横断した。)

はじめ、アメリカのシカゴ郊外の英語学校に入学したが、英語は上達しなかった。
蓄えがあったので、この機会に本格的に日常会話が出来る程度まで英語をマスターしようという気になり、1年半ほどシカゴ郊外の英語学校と、シカゴ市内のイリノイ大学の英語学校に通った。(どちらも大学の付属施設)
そこで、始めの英語学校のルームメイトのアメリカ人やその友達の南米人等の親しい外人の友人も出来た。
英語学校を終える時、アメリカ人の友人の紹介でメキシコに渡りスペイン語の初歩を勉強してから、中南米から民芸雑貨を輸入しようと考え実行した。

1987年帰国後会社を作り、玉造の西の東雲町近くに喫茶店兼民芸雑貨店を始めたが、1989年に地上げにあい、その補償金で十三の西にある北野高校近くで中南米民芸雑貨店を経営するも収益が上がらず失敗した。
その後1991年に上六の石が辻町でギャラリーを始め、1995年に北区老松通りに移転したが業績が上がらず失敗を重ねた。
この頃には、資金が枯渇し、カードローンによる借金生活となった。
2000年8月にギャラリーを廃業した。
1985年40歳でサラリーマンをやめてからそれまでの、私にとっての大冒険は、大きな致命傷を残して終わった。
ギャラリー時代に出来た借金は、自己破産するまで、精神的にも肉体的にも日々巨大な重圧であり、将来の展望は暗闇だった。
ギャラリー閉店後後は、アルバイト、契約社員、の短期間の会社勤めを繰り返した。
技術、営業、調査、警備員、公園の便所掃除とさまざまなことをやった。

50代、60代になると、コネや縁故がない限り、常勤の正社員は望むべくもない。
私は、30代後半の会社の幹部社員だった頃とか、喫茶店を経営していた頃は、採用に関係し、他人の履歴書も見る立場だった。
管理職や経営者の雇用者側から中高年の人を見ると、口は立っても動かないしプライドも高く人件費も高い中高年よりは、若い人を採用するだろうと思えた。
しかし現実には、かくいう私は中高年となり、お金も無く履歴書を書く身となり、ギャラリー廃業後に何十通と履歴書を書き、ほとんど落とされ中高年の就職の厳しさやむなしさを肌身に感じている。
高齢者で企業とのつながりの無いものには、能力を活かす場はほとんど無く、あってもパート・アルバイトの掃除や駐輪場管理といった単純作業しか働き場がなく、それらですら働ける人は幸運である。

私は、年金受給しているので、なんとかつつましく最低限の生活をすることは出来るので感謝しなければなるまい。
しかし、国民年金だけであれば、生活保護を受けなければ、単に生きていくことすら困難だろう。

昨日履歴書を書きながら、気になって欠落していた部分を調べたたら、いろいろ資料が出てきた。
時間が無かったので、昨日はそのままになっていたが、今日改めて過去の履歴書や資料を総合すると、いろんなことが、当時の思いでもひっくるめて浮かび上がってきた。
それらの、思い出は山ほどあるが、それらは後日書きたい。

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