岸惠子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
きし けいこ
岸 惠子
岸 惠子
『映画情報』1956年11月号より
生年月日 (1932-08-11) 1932年8月11日(91歳)
出生地 日本の旗 日本神奈川県横浜市
職業 女優文筆家
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1951年 -
配偶者 イヴ・シャンピ1957年 - 1975年
主な作品
テレビドラマ
沿線地図
夕暮れて
映画
君の名は[1]
女の園[1]
『約束』
雨のアムステルダム
黒い十人の女
怪談
細雪[1]
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演女優賞
2002年かあちゃん
優秀助演女優賞
2003年たそがれ清兵衛
ブルーリボン賞
その他の賞
毎日映画コンクール
田中絹代賞
1990年
テンプレートを表示

岸 惠子(きし けいこ、1932年昭和7年〉8月11日[1] - )は、女優文筆家。岸恵子の表記もある。身長161cm舞プロモーション所属。映画の代表作は『君の名は』『雪国』『おとうと』『約束』『悪魔の手毬唄』『細雪』など。

来歴[編集]

神奈川県横浜市神奈川区生まれ。1945年5月の横浜大空襲で被災。横浜市南区庚台に、1955年頃まで家族と居住、その後、同市神奈川区妙蓮寺[要曖昧さ回避]に転居。高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業[1] (48期[2])。

もともとは小説家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち、田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ[3]、断ったが後に「本物の女学生が欲しい」と頼まれて1本だけの約束で、1951年に大学入学までという条件で松竹に入社し、映画『我が家は楽し』でデビューするがヒットしてそのまま女優になった。

1952年には『坊ちゃん重役』で鶴田浩二佐田啓二の相手役を務める。5月、松竹の看板スターであった鶴田が、戦後のスタープロ第1号となる新生プロを設立して独立。第1作として、新東宝配給『弥太郎笠』の制作にあたり、鶴田の相手役のヒロインとして岸にオファーを出すが、松竹は拒否したため岸は辞表を出す。結局松竹が折れて、岸は映画に出演。続いて、新生プロの『ハワイの夜』でも鶴田と共演しヒットとなる。この頃、鶴田との恋愛関係が報道されたが、松竹に強引に別れさせられた。

1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道のあまりの寒さに、私物のストールを使用した岸のアドリブである)。岸恵子自身は、『君の名は』ばかりが長期間話題にされることを疎ましく感じ続けた。以降、松竹の看板女優となった。

1954年木下惠介の『女の園』の撮影中、岸と久我美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した[4]。同年4月16日、久我、有馬、岸は「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立[5]

1955年5月14日、シンガポールで第2回東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)が開幕。日本からは、岸と佐田啓二が共演した『亡命記』など5本の長編映画が出品された。5月19日、『亡命記』が上映。最終日の5月21日、岸は最優秀女優賞を受賞した[6][7][4]。映画祭で『亡命記』を見たデヴィッド・リーンは次回作『風は知らない』に岸に出てもらうため、同年6月3日、原作者のリチャード・メイソンとともにに来日。ふたりで横浜の岸の自宅を訪れた。同年6月18日、松竹、東和映画、にんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[8]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った[9]

レスターシャーの学校で英語の特訓を受けていた1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わなくなり、映画の制作は延期された[10][注 1]。延期の通知が松竹に届いたちょうどその頃、松竹は来日中のフランスの映画監督イヴ・シャンピと日仏合作映画『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』の製作の準備をしていた。ダニエル・ダリュージャン・マレーが出演することもすでに決まっていた。リーンと同じく東南アジア映画祭で『亡命記』を見ていたシャンピは松竹を通じて出演依頼の電報を岸に送った。岸はシャンピの『悪の決算』が好きで二度も見ており、出演を快諾。同年1月16日、岸の起用が早々に内定した[11]。岸はそのままフランス語習得のためパリに移った[9]。『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』は「長崎に台風は上陸しない」と松竹からクレームが入り[12]1956年9月、『忘れえぬ慕情』のタイトルで日本で公開された。

1957年4月29日、日本を出国。同年5月、シャンピと結婚した[13][1][注 2]。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。1967年に渡仏[14]、以降はパリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた[1]。この頃に、ジャン=ポール・サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワールアンドレ・マルロージャン・コクトーらと親交を持つ。

1959年、『風花』で久我、有馬と共演。善光寺で行われた撮影はしばしば悪天候に見舞われ、待ち時間が増えた。その間、駐日ドイツ大使館付き武官が書いたゾルゲ事件の本に読みふけった。岸の頭にひらめくものがあった。「リヒャルト・ゾルゲは、ファシズムと戦い、自分なりの思想と手法で世界を良くしようと夢想した革命児だったのではないか」。そこから関連資料をむさぼり読み、映画の企画をたてた[15]。シャンピが監督し、岸が出演した『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』は1961年に公開された。

1963年、1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した。

1972年には映画『約束』で萩原健一と共演[16]。萩原とは『雨のアムステルダム』(1975年)でも共演した。

1975年、イヴ・シャンピと離婚[1][注 3]。娘の親権は岸が持った。同年、パリ在住の役でテレビドラマ『赤い疑惑』に特別出演。1983年には「ペントハウス」誌の創刊号で、後ろ姿のヌードを披露した。

1996年国連人口基金親善大使に任命された。

2000年、娘や2人の孫息子と暮らしたフランスを離れ日本に戻り、横浜の実家で一人暮らしを始めた。同年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優7位となっている[17]

2013年3月、自らの恋愛経験を基にオマージュした熟年男女の恋愛小説『わりなき恋』を発表。2014年、小説『わりなき恋』を原作とした一人舞台『わりなき恋』に主演。脚本も自ら書いた。

ギャラリー[編集]

人物[編集]

1957年、25歳のとき、フランス人映画監督医師でもある11歳年上のイヴ・シャンピと結婚し、パリへ移住した[19]

当時はまだ日本人が海外旅行をすることが出来ない時代であり、フランスへ移住する日本人は非常に珍しかった。夫・イヴの母が世界的なバイオリニストだった影響により、「女性は手を大事にしなければならない」という理由で夫から料理をするのを禁じられ、ノイローゼになってしまった。

1975年、41歳のとき離婚、娘は11歳だった[19]。以後今日まで独身。自宅はパリの最高級住宅街として有名なサン・ルイ島にあった。築400年の家で一人暮らしをしていた。男の子の孫が2人おり、娘や孫たちとときどき会っている。

離婚後に日本に帰国を希望したが、1984年(昭和59年)5月25日の国籍法改正で父母両系血統主義になるまで日本国籍は父系優先血統主義であり、娘が日本国籍を取得できず娘の結婚までパリ在住を決意した。2018年には娘について戸籍の記述欄に記載することを申請したが出生直後に日本領事館に出生届を出さなかったことで不可能であった[20]

一人娘のデルフィーヌはパリ在住のオーストラリア人の作曲家ウォーレン・エリス英語版と結婚して[21]別居した。

遠縁に前田美波里がいる(前田美波里の母のいとこが岸恵子の母方のいとこの妻の弟)[22]。また、冨士眞奈美も遠縁にあたる(冨士眞奈美の母方の叔母の夫が岸恵子の母方のいとこの妻の弟)[22]

エピソード[編集]

  • 岸はデヴィッド・リーン監督から何度か出演依頼を受けており、「もし人生に後悔があるとしたら、デヴィッド・リーン監督の名作映画『戦場にかける橋』に出演し損ねたこと」だと語り、断ったのは唯一の後悔だと振り返る。リーンは岸のために役を用意して、主演のウィリアム・ホールデンも岸に出演するよう、来日して説得に訪れたという[23]
  • 萩原健一と『約束』(1972年)と『雨のアムステルダム』(1975年)で共演した。一部メディアは恋愛関係にあると報じたが、萩原は自著で、「お姉さん」と呼んで慕っていた通り友人関係であると述べている[24]。萩原は岸の母も慕っていた。1980年代初頭までは萩原が岸の家に遊びに来ていたが、その後は1990年前後にロビーで偶然再会したぐらいだという。ただし岸の母が亡くなった2000年前後に、萩原健一は葬儀に駆け付けてくれたという。
  • 1961年の日仏映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』の企画を手掛け、1972年のテルアビブ空港乱射事件を題材にした映画制作にも取り掛かっていた(のちに中止)ことなど、元々ジャーナリスティックなテーマに興味があることを綴っている[25]

主な出演[編集]

日本映画[編集]

我が家は楽し』(1951年)
君の名は 第三部』(1954年)
ここに泉あり』(1955年)
風花』(1959年)
黒い十人の女』(1961年)

外国映画[編集]

テレビドラマ[編集]

情報番組[編集]

  • ウィークエンドパリ(NHK-BS、1987年) - 司会報道スペシャル
  • 報道スペシャル 国鉄最後の夜 (TBS)パリリヨン駅から中継で出演した鉄道の映画についてエピソードを語った。
  • ニュースステーション(テレビ朝日) - パリからのキャスターとして出演
  • 関口宏のサンデーモーニング新春スペシャル(TBS) 1991年1月1日
  • 関口宏のサンデーモーニング新春スペシャル'95(TBS) 1995年1月3日
  • 岸恵子の時代気分(テレビ神奈川) - 司会
  • 世界・わが心の旅「ソビエト収容所大陸・岡田嘉子の失われた10年」(NHK-BS、1994年)
  • エーゲ海の風に吹かれて〜岸恵子輝きのギリシャ紀行〜(テレビ朝日、2004年)

CM[編集]

舞台[編集]

  • 濡れ衣の妻(1961年、ジャン・コクトー演出、アリアンス・フランセーズ劇場)
  • 情婦 -検察側の証人- (1980年、市川崑演出、PARCO劇場
  • 朗読劇『わりなき恋』(2015〜2016年、星田良子演出、明治座 他全国6ヶ所)
  • 岸惠子スペシャルトークショー 〜夢のあとさき〜(2017年、全国19ヶ所)
  • 岸惠子ひとり語り 輝ける夕暮れ(2019年、全国10ヶ所)

受章・受賞歴[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『巴里の空はあかね雲』(新潮社 1983年 のち新潮文庫文芸大賞エッセイ賞
    自らが朗読したカセットブックも発売された。録音後、「さすがに、自分のことを読むのは恥ずかしかったわ」と語っている
  • 『砂の界(くに)へ』(文藝春秋 1986年 のち文春文庫・朝日文庫)イラン、アフリカ紀行
  • ベラルーシの林檎』(朝日新聞社 1993年 のち朝日文芸文庫)日本エッセイストクラブ賞
    表紙のデザインは娘のデルフィーヌが担当した
  • 『30年の物語』(講談社 1999年 のち講談社文庫
  • 『風が見ていた』(新潮社 2003年 のち新潮文庫)各上下 小説 
    2009年5月7月「新日曜名作座」(NHKラジオ第1)で全8回にわたって放送。出演:西田敏行竹下景子
  • 『私の人生ア・ラ・カルト』(講談社 2005年 のち朝日文庫)
  • 『私のパリ 私のフランス』(講談社 2005年)フォトエッセイ集
  • 『わりなき恋』(幻冬舎 2013年 のち幻冬舎文庫)小説
  • 『女優 岸惠子』(キネマ旬報社 2014年)監修
    書き下ろしエッセイ、ロング・インタビュー、自身が選んだ自薦映画16作品、代表作グラビアを収録
  • 『愛のかたち』(文藝春秋 2017年/文春文庫 2021年)小説
  • 『孤独という道づれ』(幻冬舎 2019年/幻冬舎文庫 2022年)
  • 『岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない』(岩波書店 2021年/岩波現代文庫 2024年5月)

共著[編集]

翻訳[編集]

  • スージー・モルゲンステルヌ、セルジュ・ブロック「パリのおばあさんの物語」(千倉書房 2008年)

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『風は知らない』は結局、谷洋子を主演に据え1958年に制作された。
  2. ^ 『歩いて行く二人』によれば、『忘れえぬ慕情』のヒットでどこへ行っても「ノリコ!」と呼ばれるのが嫌だったし、シャンピとも英語で話していたので一日8時間くらいフランス語の勉強をしたという。下層の人々からも学んでいて首相官邸に招かれた時にそのまま使って夫を赤面させたという。
  3. ^ 『歩いて行く二人』では仕事をしすぎて不在が多かったことが原因だという。
  4. ^ 『歩いて行く二人』の中で一番好きだった役は『おとうと』のげんだったと語っている。
  5. ^ 共演はマリオ・アドルフ
  6. ^ 共演はアラン・キュニーAlain Cuny

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.14.
  2. ^ 岸惠子「かつて在りし我が師」神奈川県立横浜平沼高等学校創立百周年記念実行委員会・歴史編纂部会編『創立百周年記念誌 同窓会編 (真澄会編) 花たちばな―卒業生一世紀の証言』神奈川県立横浜平沼高等学校、2000年10月28日 発行、238~239頁。
  3. ^ 『週刊AERA1994年10月10日号 P.55
  4. ^ a b 岸惠子 2021, pp. 95–97.
  5. ^ 岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない(特設サイト)”. 岩波書店. 2022年3月15日閲覧。
  6. ^ 『映連時報』1955年6月号、日本映画連合会事務局。
  7. ^ 『朝日新聞』1955年5月22日付朝刊、11頁、「岸恵子に女優主演賞 東南アジア映画祭」。
  8. ^ 『朝日新聞』1955年6月19日付朝刊、11頁、「岸恵子に白羽の矢 日英合作映画の主演女優 デヴィッドリーン監督『風は知らない』」。
  9. ^ a b 岸惠子 2021, pp. 98–103.
  10. ^ BFI”. 2013年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月3日閲覧。
  11. ^ 『朝日新聞』1956年1月17日付朝刊、7頁、「岸恵子の起用決る ダリュー、マレーと共演 日仏初の合作映画」。
  12. ^ 岸惠子 2021, p. 108.
  13. ^ 秦早穂子江藤文夫「岸惠子論」 『映画評論』1962年1月号、25-31頁。
  14. ^ 岸惠子「ギャラをウクライナの難民に寄付したい」8月「私の最後の舞台になる」トークショー”. 日刊スポーツ (2022年5月18日). 2022年5月18日閲覧。
  15. ^ 岸惠子 2021, pp. 162–167.
  16. ^ https://www.allcinema.net/cinema/143925
  17. ^ オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。
  18. ^ 『サンケイグラフ』1955年2月27日号、産業経済新聞社。
  19. ^ a b http://anincline.com/kishi-keiko/
  20. ^ 岸惠子 2021.
  21. ^ “映画「裸足の季節」6月公開 ウォーレン・エリス(DIRTY THREE)が音楽を担当”. CDJournal ニュース. (2016年5月20日). https://www.cdjournal.com/main/news/warren-ellis/71491 2019年9月2日閲覧。 
  22. ^ a b 『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。
  23. ^ 編集委員 小林明 (2021年5月28日). “岸惠子、後悔は「戦場にかける橋」 出演を断ったワケ(エンタメ! 裏読みWAVE)”. NIKKEI STYLE. 日本経済新聞社 / 日経BP. 2021年6月2日閲覧。
  24. ^ 「ショーケン」p.53。著者・萩原健一。講談社。2008年
  25. ^ 編集委員 小林明 (2021年6月4日). “岸惠子 勝新に対峙したショーケン、力道山との最後(エンタメ! 裏読みWAVE)”. NIKKEI STYLE. 日本経済新聞社 / 日経BP. 2022年4月28日閲覧。
  26. ^ スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜
  27. ^ Du rififi à Tokyo
  28. ^ 太陽が目にしみる
  29. ^ 日仏合作ドラマ 真夜中の太陽 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  30. ^ 清原果耶とのリレー。
  31. ^ “NHK終戦の日関連ドラマに岸惠子、清原果耶、安藤サクラら出演”. ORICON NEWS (oricon ME). (2019年5月10日). https://www.oricon.co.jp/news/2135235/full/ 2019年7月22日閲覧。 
  32. ^ 日本のテレビCM史の流れを変えた異才 - 今村昭物語(12)”. 電通報 (2016年11月13日). 2016年11月13日閲覧。
  33. ^ a b c 岸恵子のCM出演情報”. ORICON STYLE. 2016年11月27日閲覧。

参考文献[編集]

  • 岸惠子『岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない』岩波書店、2021年4月28日。ISBN 978-4000614658 

外部リンク[編集]