散歩者goo 

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マナー・ファッション・外見・表現

2012年08月26日 21時25分23秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
今日ファストフードのカウンター席でコーヒーを飲んでいると、隣に30代ぐらいの女性が座り、食事を始めた。
気にもとめず、本を読んでいると、隣でペチャペチャという音が絶え間なく聞こえるのだ。
このようなことは余りない。
気になって、チラッと見ると、ハンバーグを手で持っているが、手でハンバーグを口元に持っていくのでなく、犬のように首を曲げ、パクパクと少しずつ小刻みにかぶりついているのだ。
いくら美人でも、これでは見た目がよくないと思った。

食事をするとき、日本では口をつぐんで食べるということは、普通の多分マナーとして知られているのではないだろうか。
私は、マナーに疎い方で、過剰なマナーや礼儀作法志向もいかがかとも思うが、最低限のマナーは必要だろうと思っている。
幼い頃に、口をあけてペチャペチャと音を立てて食べていたので両親に注意され、直らないと食事中でも兄のゲンコツが来て、それ以来意識するようになった。
昔みたTV番組で、レポーターがペチャペチャと音を出して食べていたのを見たことがあった。
さすがに、最近はそのようなレポーターは居なくなった。

以前、カガトの磨り減った靴をはいている人は、人間を疑われるといった話を聞いた事がある。
私は今でもカガトの磨り減った汚れきづついた靴を平気で履いている。
又、スーパーに行く時は、サンダルのように履きやすいので、5年以上前の兄のお下がりの靴を今も愛用している。その靴は、私が履きつぶして汚し傷ついたヨレヨレの介護用の靴だ。
別に兄の形見として意識して履くのでなく、単に履きやすいからはいている。
(福祉機器の業者が私のその靴を見て、(まだ靴が新しかった)、いい靴履いてますねといっていた。名前の通った高価な商品らしかったが、丈夫なことは間違いない。)

又とあるエリートが、牛丼なんて、「南洋のドジン」(差別用語?)の食べものだよ!と笑っていたことがあった。
私は、良家の出身らしいその人の人格は、その程度だと内心軽蔑した。
その類の人を沢山見てきた。
又、形や外見だけ一流にしようとする人も多い。
偉い人や有名な組織や先進国とのつながりを誇示する人も多い。(私もほんの少し、その気がありそうなので常々自戒している。)
いい物を目指すことは必要だが、いいものの近辺に居ることが目的化することが問題で、その中にはエリート意識即ち差別意識が存在する。
本来は、その人が、いい仕事をすることに価値があるので、所属グループや肩書がどうあれ、関係ない。
肩書があるときは、奉られ、肩書がなくなると、相手にされなくなった人も多く見ている。
本当にいい仕事をし、実力があれば、肩書がなくとも、人は注目している。

その意味で、外見、特に服装は、肩書と同じような働きをする。
私は、服に関しては、汚れた物は必ず洗濯し、出来るだけ清潔なものを着るように、心がけている。
しかしファッション等に、気を配る経済的余裕はないので、ファッションは気にしない。
馬子にも衣装のように、服装でハッタリを効かせる芸当は、これからも出来そうにない。

外見で人の評価を気にすると切がない。
そのためブランドだけで、身を飾る人も居るのだろう。
私から見れば、中身のないブランドオタクとは仲良くなれないだろう。
マナー・ファッションも含め、外見と中身や行動とどのように折り合いをつけるのか問われる。
外見や行動はその人の内面表現の一つであり、又そのあり方や信念は、その人の価値を表す物差しだろう。

哲学的に言えば、完全な自然人は存在しないといわれる。
例えば最低限、人間は爪を切り、髪を洗い整え着るし服も着る、即ち自然ではないのだ。
所詮、人間は、人工物や社会から逃れることは出来ない存在なのである。
表現に使う言語そのものが、人工物であり社会の産物である。

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