prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「キラー・ジョー」

2013年05月29日 | Weblog
ビデオ題名「キラー・スナイパー」。殺し屋は出てくるけれど、狙撃なんかしません。

タイトルにキラーなんてついているから、監督のウィリアム・フリードキンとしては「フレンチ・コネクション」系統の犯罪ものかと思ったら、もとはトレーシー・レッツによる舞台劇で、「BUG」に続く戯曲原作=脚色コンビ第二作ということになる。
原作の発表はこれが1993年、「BUG」の方が1996年と順番は逆になっている。

フリードキンの舞台劇の映像化に練達の腕をふるう演出家としての顔は日本デビューの「真夜中のパーティ」(1970)以前の「誕生パーティ」(1968)から続いているわけで、ここでも明らかに舞台のリミットを生かした演出をしている。
淀川長治がフリードキンを「ワイラーの二代目になるかと思った」と評したくらいだから、「真夜中のパーティ」の評価の高さがわかる。

たとえばマシュー・マコノヒー扮する殺し屋がある写真を出して一家の主人に見せる場面で、その写真を観客には見せない。妻のとんでもない姿が写っているのはわかるだけに意地が悪い。
人物の出入りの感覚も舞台的なリミットを効果的に生かしている。
一方で人が殴られて血を流したり鼻が折れたり痣が時間経過につれて色が変わったりする生々しいメイクは徹底したリアリズム。

フリードキンらしい酷薄な内容と描写で、5万ドルの保険金狙いで息子が殺し屋を雇って母親を殺すのを頼むというのもひどいし、報酬2万5千ドルで人を殺すというのも人の命が安くなったものだと思うが、その後の家庭内不和なんて言葉では追いつかない展開のひどさはあまりにひどいので笑ってしまう。

死体を車に積めて火を放つというありがちな描写でも、車全体に火が回って爆発する、そこに女の子の笑い声がかぶる(次のシーンの音の先行)というオフビートな外し方がなんとも薄気味悪いユーモアセンスを見せる。

フリードキンも御歳74歳のはずだが、ちっとも丸くなりません。
マコノヒーがフライドチキンで代用してジーナ・ガーション(ああこの人がクリントン元大統領の愛人のひとりかと思って見てた)にフェラをさせるという妙なシーン、どういう意味だろう。

半分以上人間性がぶっ壊れた連中が機械的にぎくしゃく動いている可笑しさ、というのは相当に出ている。人間性から来るユーモアなんてものではなく、非人間性からくるひきつりぎみの笑いという感じ。ブラックユーモアというほど余裕がない。
一方で日本でもこれに近い人非人による理解を絶する犯罪があるぞ、とも思わせる。
(☆☆☆★★)



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