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松山市高浜地区・史跡「四十島」見学

2014年07月08日 | 伊予松山歴史散策
昨日(6月7日)、梅雨前線の北上と台風8号の影響で松山地方は大雨雷注意予報が出ていた。四十島見学と史跡散策は以前から計画していたので天候に関係なく出掛けた。ガイドをして頂いたのは、高浜地区史跡を奉仕活動で案内を行っておられる「川内さん」にお願いした。
本日の目的は四十島を上から眺める場所に行く事、この地は私有地で現在太陽パネルを設置してあるので許可が必要、初めて四十島を上から見た。この島は、夏目漱石「坊ちゃん」に出てくる「別名ターナー島」、同小説では「青島」で登場する。島の松ノ木が枯れ、高浜小学校の北岡先生が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩から水分や養分を摂取しているから育つそうです。大学の権威のある教授がもうこの島には松は育つまいと言われ松山市や愛媛県はあきらめていたが、北岡先生が「なにくそ魂」の精神を発揮し研究を重ね育て上げ現在は立派に松が育っていた。(当時北岡先生は、高浜小学校の理科の先生)高浜沖、四十島付近で大正11年11月15日、旧日本陸海軍の大演習が行われ、これの観閲に摂政宮(後の昭和天皇)が大正天皇の名代としてお越しになられた。(大正天皇は御身が弱く地方には出向かれてなく殆ど摂政宮様が名代として出向かれていた)観閲された場所が高浜の荒神山でここに秋山好古が揮毫した記念碑が建っている。この石碑も掲載しますので見て下さい。


平地から見た四十島(ターナー島)で次に出る四十島は小高い山の上から見た島ですので高低差を比較して下さい。


小高い山(丘)の麓に神社がある。その境内に正岡子規の句碑があった。
句は、明治25年秋の句で「初汐や松に浪こす四十島」、「初汐」は旧暦8月15日の大潮の事で、この時期の潮波は大きく、四十島を越えてしまいそうな大潮が発生するそうだ。
また、明治25年は(1892)伊予鉄道が三津から高浜まで延長され、子規達はよくここに遊びに来た。この時期、子規は東京大学を中退する事を考えていて、夏目漱石は退学を思いとどまるよう説得に松山に来ている。


子規の句碑の横に、野村朱燐洞の句碑がある。句は「かがやきのきみは白波うちかへし」死の直前大正7年4月作。朱燐洞は、この年の10月31日流行性感冒により26歳の若さでこの世を去った。(明治26年~大正7年)子規が読んだ句「「初汐や松に浪こす四十島」が明治25年、その翌年に朱燐洞が生まれ、そして26年後この地に来て句を詠んだ「かがやきのきみは白波うちかへし」である。


私有地持ち主の許可を得て小高い山に上げてもらった。四十四島の高さが18mだから、標高20m位だろうか?
初めて四十島を上から見る事が出来た。子規も、漱石も、朱燐洞もここから島を見たものと思う。
所在地は、松山市高浜一丁目115番地、堤塘(ていとう)=土手として法務局に登記されている。所有者は、平成17年7月8日愛媛県から松山市に登記替えされた。成り立ちは、花崗閃緑岩の大小三つの岩が連なって出来ている。
高さ18m 面積1200平方m(363坪)、島の周り約140m。地質がもろく、波浪や海流の影響を受け、年々細っている・・その内消滅するのではないかと心配している。
後方は興居島で、元読売巨人軍投手、西本 聖の出身地。


四十島について。
1、 所在地は、松山市高浜一丁目115番地。
2、地目は、土地の種類は(堤塘・ていとう=土手)として法務局に登記されている。
3、位置は、高浜港から500m・黒岩海岸から200m沖合。
4、所有者は、平成17年7月8日、愛媛県から松山市に移管。平成17年11月18日、国指定登録記念物に指定。
5、成り立ち、地殻変動で地上に出来た。年代は不明。
6、松の復活、20数年前に松が枯れ、今後この島には松は生息出来ないと大学の権威者が言われた。
  これに対し、なにくそ魂でいろいろと研究された当時高浜小学校の理科の先生「北岡先生」が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育てげ立派  な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩育っている。


この日は雨が降っていたがこの山に上がった途端に止み島の後ろに船が現れそしてバックの山は「伊予小富士」でいい感じに雲が掛かった。
四十島の大きさを書いておきます。
島の高さ、18m 回り、140m 広さ、1199m2(363坪) 対岸の距離、150m 島の名前、四十島 俗名、ターナー島・・である。


山から下りて、やはり私有地の了解を得て(黒岩海岸)四十島を撮った。


高浜港の後ろにある荒神山山頂にある、秋山好古が揮毫した石碑。
1.碑   文 :  摂政宮殿下特別大演習御野立場
2.所 在 地:  松山市高浜町二丁目乙74番地29  荒神山 標高27m
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  新濱村
5.建立年月日:  大正13年1月 
6.碑石大きさ:  高さ 2m 97㎝ 横幅 99㎝ 厚み 36cm


荒神山山頂。皇太子が結婚された記念に大正13年1月、記念碑を建立した。伊予鉄道高浜駅から徒歩10分標高27m。


荒神山山頂から見た四十島(左に小さく見える島)高浜港から船が出港しているが、ここで大正11年11月15日 昭和天皇が皇太子時代に陸海軍の大演習が行われた。大演習をこの荒神山から観閲された。


海南新聞:大正11年11月15日付の記事、大正11年11月14日 昭和天皇が皇太子時代に陸海軍の大演習が行われた。大演習をこの荒神山から観閲された。「海南新聞:大正11年11月15日付の記事」荒神山に上られる皇太子殿下。下の画像は、観閲されるお席。海南新聞は、現在の愛媛新聞。後方の山は、興居島の伊予小富士。


昨日、高浜地区史跡散策をして昼食を松山観光港🍴でいろいろとガイドさんのお話を聞きながら楽しい昼食の一時を過ごした。このレストランは屋根付きの屋外席もあり、屋外席で食した。後方の船は、九州小倉航路と広島、呉航路。


この建物は、萬翆荘で旧伊予松山藩主第16第久松定謨、松山の別邸として建築中であったが、大正11年11月陸海軍の大演習が行われ事が決まり観閲に来られる摂政宮様の宿泊所とするために突貫工事で建設したものである。摂政宮様は二階のお部屋に泊まられた。
昭和20年11月から暫く連合軍司令官の宿舎として使われた時代もあった。



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