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◆イエスにお目にかかりたいのですが。

2015年04月17日 16時35分02秒 | 聖書

(ヨハネ一二・二一)

世的な人の叫びは、常に「どうか、よいことがありますように」である。人々は地上的な慰め、楽しみ、富に満足を求める。しかし目覚めた罪人は、ただ一つのよいことを知っている。「どうか、主を尋ねてどこで会えるかを知ることができますように。」彼が真に罪に目覚めたならば、たとえあなたがインドの黄金を彼の足もとに積み上げても、「それを持って去れ。私は主を見いだしたのだ」と言うであろう。
願いを焦点に集中するのは尊い。しかし彼のすべての願いが一つの水路に集中される時、その心は清水の流れる川のようになり、勢いよく流れて田畑を潤す。一つの願いをもち、その願いがキリストを求めるものであるならば、たとえそれが未熟なものであっても、彼は幸いである。
もしイエスが彼のたましいの願いであれば、神のみわざが内に始められているという幸いなしるしである。彼はこう言うであろう。「私はキリストを必要とする。ただ主ご自身のみを必要とする。単なる儀式は私にとって無益だ。私が渇いて死にそうなのに、あなたは空の水がめを見せるのか。私に水を与えよ。さもなければ、死ななければならない。イエスは私のたましいの願いである。私はイエスにお目にかかりたい。」
友よ。今のあなたの心境はこのようであろうか。唯一の目的だけをもっているであろうか。そしてそれは、キリストを求めることであろうか。では、あなたは天国から遠くない。あなたは心の中にただ一つの願望をもっているか。その一つの願いとは、イエスの血潮により、あなたのすべての罪が洗い流されることであるか。心の底からあなたは、「私は、もっているすべてを投げ捨ててクリスチャンになりたい。もし私が、キリストといささかでも関係のあることを感じることができるならば、私の所有するすべて、そして私の願望のすべてを捨てる」と言い得るか。では、たとえ恐れが押し寄せてきても、勇気を出せ。主はあなたを愛しておられる。まもなくあなたは陽光のもとに出て、キリストの自由の中に喜ぶことができよう。

 

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